書評

2023年11月号掲載

また新たな基礎的教養書の登場

キャスリン・ペイジ・ハーデン『遺伝と平等―人生の成り行きは変えられる―』

平野啓一郎

対象書籍名:『遺伝と平等―人生の成り行きは変えられる―』
対象著者:キャスリン・ペイジ・ハーデン/青木薫訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507351-0

 遺伝に関しては、モヤモヤしたものが社会にある。
 例えば、背の高さや顔の作りといった人間の外観に、遺伝の影響を一切認めないという人はいないだろう。運動能力に関しても、恐らく多くの人がそれを自明視している。
 では、学歴についてはどうか? 勉強が出来る子は、生まれつき“賢い”のではないか、というのは漠然とした想像だが、その見方には反発もあり、懐疑もある。
 昨今では、学習障害への理解と対応も広がってきたが、学校教育は、基本的に生徒の学習能力の遺伝的な差異を認めていない。では何故、成績に差が出るのか? その説明は、従来、「努力」の一点張りだった。福沢諭吉の『学問のすゝめ』には、「人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。」とあるが、こうした考え方は、勤勉による立身出世が尊ばれた明治時代以来、戦中戦後と、時代の要求に応じながら深く社会に浸透し、今日も頑なな「自己責任論者」を生み出し続けている。
 とは言え、格差の拡大は、さすがに人々の意識を変えつつあり、「親ガチャ」から「文化資本」に至るまで、今日、生育環境の不平等を訴える議論は盛んである。M・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』が評判となったのもその一例だろう。
 しかし、本当に、生育環境の不平等だけだろうか? もし私たちが、遺伝の不平等のために、この社会で不当な不利益を被っているとすれば?――この極めてセンシティヴな問題に関して、本書の著者の主張は、極めて明確である。
 遺伝子がIQテストで測定されるような「認知」スキル、更には動機や忍耐力、粘り強さといった「非認知的」スキルに影響を及ぼすことは事実であり、そのために教育の成功が左右され、結果、社会的な地位や収入に格差が生じている。しかも、私たちが生物学的な両親から受け継ぐ遺伝的特質は、「くじ」に喩えられるように、完全な運任せである。――この指摘は、直ちに様々な誤解や悪用の懸念を引き起こすが、著者は、その「リベラル」な政治的信念に基づき、しかしバイアスを排した科学的態度に徹して説明を尽くす。
 例えば、ダウン症のような染色体異常や単一遺伝子病とは異なり、鬱病には何万にも及ぶ遺伝子の「バリアント」が影響しており(ポリジェニック)、況(ま)してや学歴や人生の「成り行き」への影響となると、その数も途方もない。従ってこれは、人工的な操作が極めて困難な確率論であり、特定の遺伝子に介入することで、ユヴァル・ノア・ハラリが主張するような「ホモ・デウス」がすぐにも誕生するといった話ではない。
 この蓋然性(ポリジェニックスコア)の算出方法は、あくまでとある集団内での平均であり、対象は個人で、結果は個体差であって、それを「人種」のような社会的構成物としての集団に当て嵌めることは不可能である(従ってレイシズムに悪用することは出来ない)。また、他の集団に、この学歴とポリジェニックスコアとの相関を移植することも、現在のように、遺伝的祖先がヨーロッパ系の人々に偏したデータに基づいて研究が為されている限り不可能である。
 そうした条件を踏まえた上で、我々は、個人の遺伝的特質と学歴との相関(それも環境要因と同程度に強い)という現実に対して、どう向かい合うべきだろうか?
 著者は三つの立場を示す。一つは、人生に遺伝の影響があるという事実を以て格差を自然化し、介入的変革を否定する「優生学」。二つ目は、公平な社会の実現に於いて、遺伝的差異を無視する「ゲノムブラインド」。作者はこの両者を徹底して批判している。対して、三つ目は、「遺伝データを利用することで、人々の生活を改善し、成り行き(アウトカム)の平等化を効率的に進められるような介入の探究を加速」することに努める「アンチ優生学」である。
 結局のところ、学歴とポリジェニックスコアとの相関も、今日の我々が、特定の遺伝的特質を備えた人間が有利となるような社会を作り、維持しているというに過ぎず、著者は遺伝的多様性を前提とした、真の意味での平等な社会の実現を訴える。
 私はその考えに、基本的に同意する。ただ、個人のポリジェニックスコアが可視化されてから、それに十分に配慮した社会が実現されるまでの過渡期には、多大な不利益を被る人も出てこよう。自尊心の問題もある。優生学的な主張も、容易には根絶やしに出来まい。
 いずれにせよ、個人の“幸福”に於ける遺伝の影響という難題に対し、本書は極めて周到な議論を展開しており、今日の私たちにとっては必読書と言うべきであろう。


 (ひらの・けいいちろう 作家)

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