書評

2023年11月号掲載

変化を強いない救済の物語

谷瑞恵『小公女たちのしあわせレシピ』

白川紺子

対象書籍名:『小公女たちのしあわせレシピ』
対象著者:谷瑞恵
対象書籍ISBN:978-4-10-351572-2

 ホテルを住み処とし、本名も故郷も過去もすべて謎のまま亡くなった老婦人、メアリさん。彼女の遺した英米児童文学の本には、物語に出てくるお菓子のレシピが挟み込まれていた。本書は、そのレシピを再現してゆくなかで救われる人々を描いた連作集だ。
 外国の児童文学と、そこに登場するお菓子。これだけでもう心ときめくものがある。外国の児童文学に登場する食べ物がいずれもおいしそうだというのは、子供のころそれらを読んだひとには覚えのあることではないだろうか。片田舎に住む子供だった私には、「プディング」ひとつとっても明確には思い描けず、しかし文章からはとてつもなくとくべつなお菓子に思えて、唾を飲み込んだものだった。
 本書には『小公女』『トムは真夜中の庭で』『不思議の国のアリス』などの児童文学が出てくる。レシピはぶどうパンに、トライフル、トリークルタルト等々……味覚は記憶を呼び覚まし、大事なものを思い出させてくれて、自分を受け入れることができるようになる。本書を読んでいると、その味を知らないのに、不思議と登場人物たちとおなじように、味覚が鮮烈に記憶と結びつくさまを疑似体験しているような気になる。
 物語は六話あり、登場する児童文学も六作ある。結婚を控えた友人に寂しさを覚えるつぐみ、母やクラスメイトとうまくいかない理菜、家族の仕打ちに傷つき家出した主婦の詠子、母親へのわだかまりを抱えた獣医の蒼(そう)、子供との接しかたがわからない小児医療事務員の和佳子、心のよりどころだった祖父母の園芸店がなくなるかもしれないことに動揺する千枝。登場人物たちの心情が、静かで柔和な筆致で丁寧に綴られる。彼らの多くは劇的に不幸なわけでも、劇的な変化が訪れるわけでもない。ゆるやかで、包み込まれるような雰囲気にこの物語は満ちている。己も他者も否定しない、ありのままを受容する、海のようなまなざしが常にあるからだ。これはメアリさんの在り方そのものでもある。
 過去の記憶を失い、どこの誰であるか、自分自身でさえわからなかったメアリさん。途方もない絶望のなかにいた彼女を救った、つぐみの祖母である潔子(きよこ)さんとのエピソードには胸打たれるものがある。メアリさんと潔子さん、このふたりの関係性が実にいい。
 メアリさんはメアリさんとして新しい人生を生き、人々にしあわせな贈り物も遺した。この物語があたたかいのは、「メアリさんはいったいどこの誰だったのか」を下世話に暴く物語ではないからだ。記憶をなくす前の過去の彼女が「本物」で、メアリさんとなった彼女が「偽」なのではない。潔子さんはかつて言った――「本当のメアリさんがどんな人か、誰かに認めてもらう必要があるの?」と。
 メアリさんは故人だが、この物語を導いてゆくのはメアリさんにほかならない。メアリさんの生き方、在り方が反映されている。物語は、悩み、傷ついた人々に拙速に変化や成長を求めない。いま在る彼、彼女たちを肯定している。物語が彼らに、変わることも成長することも強いないことで、救われる読者は必ずいる。
 それにしても、作中、直接登場することはないのに、人々の口から語られる、あるいは思い出のなかに立ち現れるメアリさんの、なんと魅力的なことか。
 ピンクのリボンがついた古風な麦わら帽子に、全身ピンクの服、名前とは裏腹に純和風の顔立ち。ピンクのミニブタをつれて散歩し、本をいっぱい詰めたキャリーバッグを引いている。温和で、しかし確固たる芯のある老婦人。素敵である。一読して思ったのは、「メアリさんに会ってみたかった」だった。こんなひとが公園に憩い、海辺を歩き、傷ついたひとに寄り添ってくれる。なんて素敵な町だろう。海に近い地方都市の一角を散歩するメアリさんは、非常に絵になる。メアリさんの遺した本はまだまだありそうなのと、「もしかして?」と思わせるいくつかの要素がひそかに書かれているので、続編を期待してもいいのだろうか? ぜひお願いしたい。
 もう一点特筆すべきなのが、ミニブタのムシャムシャ。この物語におけるマスコット的キャラクターだが、著者はこうしたキャラクターを、添え物ではなく生き生きと存在させるのが抜群にうまい。著者の少女小説「伯爵と妖精」シリーズでも、主人公の相棒に妖精のニコが登場する。このニコもたいへん魅力的で、読者に愛されるキャラクターである。「伯爵と妖精」で、主人公の次に好きなキャラクターは、と訊かれたら、私はニコだと答える。ムシャムシャもまた、名前からして魅力的なのだが、物語のなかでぬくもりある光を放つ、愛すべき存在である。
 メアリさんは登場人物たちに印象的な言葉をいくつも残している。私がとりわけ心に残ったのは、蒼に向けた言葉――「あなたも、贈り物よ。誰かが待ってる」。物語のなか、読んだひとの心に響くメアリさんの言葉が、きっとあるだろう。


 (しらかわ・こうこ 作家)

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