書評
2023年12月号掲載
クラインの壺におさめられた「いま」
古川日出男『紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」』
対象書籍名:『紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」』
対象著者:古川日出男
対象書籍ISBN:978-4-10-306080-2
自宅から自転車で五分ほどのところに、「源氏の物語」がここで書かれた、と伝えられる邸の跡がある。現在は廬山(ろざん)寺という天台系の寺院が建っている。
本堂で庭の地面を見ながら風を浴びていると、不意に、千年の時間なんて、五分前と同じ、ほぼ「いま」だな、という気になる。たったいま、道長から贈られた陸奥紙(みちのくがみ)に、彼女は筆を立て、さらさらと仮名を書きしるす、滑らかな流跡が風のなかにひるがえる。
「紫式部日記」は、彼女の手による、ふしぎな読みものだ。中宮彰子の出産前後の日々をつづった記録であるいっぽう、随所にため息まじりの独白がちりばめられ、後半にはえんえん、日々の記録とはかけはなれた、宮中の女性たちの「品定め」のような記述がつづく。その「ふしぎさ」に脈絡を与えようと、「冒頭ふくめ、散逸した箇所が少なくない」とか「後半のひとり語りは、どこかの時点で、誰かにあてた手紙とごっちゃになった」とか、これまでいろんな理屈が語られてきた。
その「ふしぎさ」を、「フィクションライター」古川日出男はまるのまま受けとめる。「現代語訳」をするにあたり、「先輩フィクションライター」紫式部を、時のむこうから「いま」へと招来する。「いま」の上に「日記」を差しだし、そのテキストを書いた本人に「現代語訳」してもらう。という、クラインの壺のようなフィクションを編む。
当然、複数の「いま」が、ちがう日の光のように交錯する。
①いちばん旧い、日記に書かれたできごとの起きた「当時(いま)」(道長が酔って泣いたり、宮中に追いはぎが出たり)。
②紫式部がみずからの房で日記を認めている「昔(いま)」。
③フィクションの紫式部が訳文を語っている、どこにも属さない「今(いま)」。
④読者がフィクションを読んで、じんときたり、ええっ、と驚いたり、「いま」を忘れてページを繰ったりしている「現在(いま)」。
これら複数の時間を、古川日出男が語るフィクションの「時(いま)」が束ね、ほどき、つなぎ、重ねる。その楽しさ。自在さ。
日付とはくさびだわ。おまけに正確な記録というのはこのくさびを要求する。八月二十日すぎに進もう。このころからお邸(やしき)のありさまがさらに変わりだした。
とまどいは、あって当然です。ここは――この日記の内側の世界は――少しも「現代」ではないのですから。一千年以上もむかしなんですから!
やがて「くさび」ははずされる。日々の正確な記録は、跳ばされ、要約され、背景に遠ざかる。かわり、日記の深部から「ノーマルさからは外れ」た感性が噴出し、テキストを「グルーミィ」の色に染めぬく。そこには、死の影、閉塞、偶然、悪夢が、輪郭をとらないまま渦巻く。彼女の著した巨大な「もの語り」で、主人公たちの魂にしみついていたものと同じ。あるいは、すべての「いま」を通じ、自らを生きるほかない人間の、いっそう切実な、普遍の「わたし語り」。
見取り図にのっとって、ではない。古川日出男は聞きのがさない。「気質というか本質、ネイチャー」で、紫式部はこのように書く。このようにしか書かれない。結果「わたしは日記をつづけようとするモチベーションをうしないました」とまっすぐに語る。クラインの壺が、いつのまにか完結している。
すべての書物は、読まれる瞬間、読むものによって「現在語訳」される。古川と紫式部の輪唱に乗ってぼくたちの「いま」は未知の生きもののように伸び縮みする。本書と「日記」の原書を携え、廬山寺まで自転車を走らせる。いったいどんな「いま」が、まわりつづけるぼくの車輪に引っかかるだろう。
(いしい・しんじ 作家)