書評

2023年12月号掲載

ミケランジェロの知られざる「焰」

コスタンティーノ・ドラッツィオ『ミケランジェロの焰』(新潮クレスト・ブックス)

一色さゆり

対象書籍名:『ミケランジェロの焰』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:コスタンティーノ・ドラッツィオ/上野真弓訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590191-2

 ミケランジェロを表現するにふさわしい言葉は「炎」ではなく「焰」だということを、私は知らなかった。
 これまでミケランジェロといえば、映画『華麗なる激情』で再現されていたような、情熱的でちょっと偏屈な巨匠というイメージがあった。生みだされた数多の傑作はただただすごい。しかし本書は、従来のヒーロー像をなぞってくれる一方で、ミケランジェロの知られざる「焰」について教えてくれる。
 筆者のドラッツィオ氏は、1974年生まれのイタリア人美術批評家でありキュレーターでもある。じつは私一色は、以前から同氏の『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密』を愛読していた。ダ・ヴィンチにまつわる本は古今東西多くあるが、この『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密』はひと味もふた味も違う唯一無二の名著だからだ。複雑で謎多き「万能の天才」の生涯が、分かりやすく流麗な文体で活写され、専門的知識を得られると同時にストーリーテリングが抜群にうまい。だから、この書評で白羽の矢が立ったときは嬉しさで小躍りしたほど。同氏の新刊をいち早く読めたことや翻訳者の上野真弓氏に感謝しつつ、ドラッツィオ氏の本の魅力を伝えたいと強く感じている。
 本書は、晩年のミケランジェロが甥のレオナルドに己の生涯を伝える一人称形式になっている。大理石の粉塵のなかで生まれ育った幼少期からはじまり、工房での修業時代では彼の父に対する複雑な感情の他、才能を妬んだ兄弟弟子から殴りかかられ鼻を潰されるエピソードなどが語られる。若くに庇護を受けたメディチ家での華麗なる宮廷生活も、宴で供される料理に至るまで鮮明に描写される。
 しかし、まもなくメディチ家が混迷に陥り、彼は不安定な立場に置かれる。今とはまったく異なる時代ながら、必死に活路を見出そうとする彼の姿は共感さえ抱く。その頃、彼は人体の優れた表現を追求するあまり、解剖学への興味を募らせてもいた。腐敗臭のなか、皮膚を剥いで内臓を取りだすシーンは、蝋燭の「焰」とともに描写され、宗教的な道徳心と葛藤するミケランジェロの煩悶や緊張感がよく伝わる。
 本書は、当時彫刻家がどのように注文を受け、素材を求め、そして制作や設置をし、権力者と対峙したかという歴史の細部を追体験させてくれる。しかも、それは筆者の好き勝手な憶測ではなく、ドラッツィオ氏ならではの深い造詣に裏打ちされた想像の産物なので、読者は安心してページをめくることができる。そして「ああ、これがあの名作になるのだな」と臨場感にたっぷり浸ることで、ミステリー的な読み方さえ楽しめる。
 ミケランジェロはやがてローマに移り、枢機卿とのバトルをくり広げる。彼のあまりに自信家で頑固者な素顔には、つい笑みがこぼれる。戦いといえば、宿敵ダ・ヴィンチとの交流も本書の見せ場の一つだろう。《ダヴィデ像》を完成後、ダ・ヴィンチから嫌味をチクリと言われたり、《アンギアーリの戦い》で真っ向から対決させられたりと、彼はなにかとダ・ヴィンチに苛立つ。それでも、天才同士にしか理解しあえない世界も描かれ、二人のひそかな友情に私の胸は熱くなった。
 人生の段階を経るにつれ、作品に捧げられる彼の言葉も詩的に変化する。たとえば、二十五歳前で出世作《ピエタ》を制作したとき、ミケランジェロは「石にもう一つの命を与えようと努めたんだ」とふり返る。《瀕死の奴隷》の構想過程では「彫像はすでに石塊の中にある」「それは、叡智の教えに従うことでしかできないのだ」「わしはただそれを表に出してあげるだけでよかった」と語る。四年にわたるシスティーナ礼拝堂の画業では、「絶え間ないイメージの洪水の中に完全に浸り、考えられないようなスピードでそれらを描いていった。しまいには、完全に空っぽになっていた」。
 やがて彼は権力に翻弄されながら、老いて孤独を深める。自らは質素なあばら家での生活をつづけるが、家族からは金を無心され、彫刻刀を握る力も衰える。「人間の身体の奇跡のような美しさをありとあらゆる形で見せたいのだ」と意気込んでいたはずの情熱家も、「今の時代、彫刻に何の意味があるのだろう? どんなメッセージを託せばいいのだろう?」と迷いはじめる。そうして最後に《ロンダニーニのピエタ》を生みだす場面は、読者の胸を打つだろう。
 ミケランジェロからの長い長い手紙を受けとった甥のレオナルドは、なにを思うのか? ぜひ本書を手にとって確かめてほしい。彼の人生は「炎」ではなく「焰」だった。希望の炎ではなく、苦悶のなかで暗い情念を掻き立てる焔であった。けれど、それは冷たく苦しいだけではなく、残された者のみならず五百年近くあとの私たちの心をも温かく照らしだしてくれる光に違いない。


 (いっしき・さゆり 小説家)

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