書評

2023年12月号掲載

母も、そうでない人も

ペギー・オドネル・ヘフィントン『それでも母親になるべきですか』

中江有里

対象書籍名:『それでも母親になるべきですか』
対象著者:ペギー・オドネル・ヘフィントン/鹿田昌美訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507371-8

 子どもがいる女性、そうでない女性、どちらにも直球で迫るタイトルだ。
 ちなみにわたし自身は後者。身内には二人の子を持つ妹がいて、甥と姪がもはや自分の子ども替わり。妹を見ていると母業は楽ではない、と感じることが多い。だけど子どもを持たなくてよかった、とも思わない。
 おそらく女性は、自分の体に備わった機能を使うか、使わないかで、ある時期まで心が揺らぐ。正解はない、とわかっていても。
 本書は母にならなかった女性たちを追いながら、その理由と「わたしらしく生きる」ことの意味を探っている。
 冒頭、マダム・レステルという女性が紹介される。
 1830年代、ニューヨークで最も邪悪な女と呼ばれた彼女は、避妊薬・中絶薬を作り販売した。妊娠した女性のために中絶施設も紹介していた。つまり中絶が違法となりつつあった時代に抜け道を築いた。
 かつて、中絶は女性が結果を気にせずにセックスすることを可能にする、と中絶反対派は主張したという。そんなバカな! と声をあげたくなるが、現代の避妊手段の一つである経口避妊薬(ピル)は医師の診察のもとに処方されるのみ。国によっては市販もされているが、日本では病院へのアクセスが難しいと、ピルを使えない。自分の体のことであっても、避妊と中絶は自由と言えない。
 子どもは生んだら終わりでなく、育てなければならない。
 アメリカ独立宣言の署名者として知られるジョン・ハンコックは幼少期に父を亡くし、失意の母から叔母のもとに預けられて育った。子どものいない女性が一時的に母親の役割を果たすのは、女性同士のネットワークと、互いを助け合うコミュニティがあったから。初期のアメリカの家族は、親戚や身内が近所で暮らし、母親が多忙でも誰か別の者が子どもの面倒を見てくれた。
 昔の日本も、子育てコミュニティはあった。逆に言えば核家族化したこと、都会の、あるいは郊外の縁のない土地で暮らすことで、子育てを任せられる相手がいなくなったのだ。
 ところで、子どもがいないことは個人の選択だろうか?
 冒頭に書いた通り、体の機能を使うには年齢が関係する。仕事をする女性が妊娠のタイミングを失い、タイムオーバーになってしまう例もあるだろう。仕事と子ども、どちらも手に入れたいと思うのはいけないことだろうか。
 女性解放の影響を受けた1980年代、女性が「すべてを手に入れる」の「すべて」とは「愛と成功とセックスとお金」を指した。
 今ならその中に「子ども」が入ってくるだろう。
 しかし働きながら子を育てる大変さは、昔も今も変わらない。たとえば昔の農民の家族は自分の土地で食料を調達、家庭内で働き口があった。工業化が進んだことで都会へ移り住み、工場へ通勤するようになった。こうして家で子を育てることと仕事は両立困難になったのだ。
 少子化、人口減少が決定的な日本では、子どもたちへの将来の負担が大きくなることも危惧する。かつては増加する人口の抑制策を練ったというのに皮肉な話だ。
 子を持とうとする女性にとって、環境問題も心配の種になる。話題のSDGsの効果がどれほどかはわからないが、少しでもよい環境で子を育てたいのは、どんな親にとっても共通の願いだろう。
 生殖技術の発展で、卵子の凍結、体外受精など不妊治療の道が切り開かれた。働く女性にとって妊娠出産の時期をコントロールできれば、仕事でもよりパフォーマンスをあげられる。でも必ずしも妊娠ができるわけではない。そもそも妊娠も出産も奇跡的なことだというのを忘れてしまっている。
 こうした子を持たない理由の中でも、最後に挙げられる理由がある意味、最も根が深い。それは子を持つ以外の人生の選択だ。
 子どもがいないのではなく、子どもから自由になること。
 母も、そうでない人も同じ地球で「わたしらしく生きる」一員。強迫観念を捨て去り、互いを尊重し、理解を深めるための一冊。むろん男性も無関係ではない。


 (なかえ・ゆり 俳優/作家)

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