書評
2023年12月号掲載
アート×コンゲームの大興奮傑作ミステリ
望月諒子『大絵画展』
対象書籍名:『大絵画展』(新潮文庫)
対象著者:望月諒子
対象書籍ISBN:978-4-10-103343-3
いまとなっては夢のような話だが、バブル経済真っ盛りの1990年5月、フィンセント・ファン・ゴッホが死の直前に描いた一枚の小さな油絵がオークションにかけられ、8250万ドル(当時のレートで約125億円)で日本人に落札された。題名は「医師ガシェの肖像」。競り落としたのは、大昭和製紙名誉会長(当時)の齊藤了英だった。
この「ガシェ」に限らず、バブル期の日本は途方もない値段で世界の名画を買い漁っていた。1990年には、日本の美術市場の年間総取引額が、なんと1兆5千億円に達したという。それらの名画は、なぜそんな高額で売買され、その後いったいどうなってしまったのか?
糸井恵『消えた名画を探して』(時事通信社)はその謎を追うスリリングなノンフィクションだが、同じ疑問を出発点に、事実とウソを巧妙にブレンドしつつ、虚々実々のサスペンスを紡ぎ出したのが、第14回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した本書『大絵画展』。
著者の望月諒子は、新潮文庫に入った社会派ミステリ《木部美智子》シリーズの長編『蟻の棲み家』がベストセラーになり、同じシリーズに属するデビュー長編『神の手』が吉岡里帆×安田顕で今年TVドラマ化されるなど、にわかに脚光を浴びているが、『大絵画展』は、それとはずいぶん趣の違う、軽快なタッチのコンゲーム小説だ。
犯行の主役は、それぞれの事情から投資詐欺に引っかかり、借金を抱えて追いつめられた男女。彼らは(ジェフリー・アーチャーの『百万ドルをとり返せ!』さながらに)一発逆転を狙って乾坤一擲の大博打に乗り出すことになる。そのターゲットが、問題の「医師ガシェの肖像」。いまは銀行の所有物となり、万全のセキュリティを誇る専用倉庫に、他の名画群ともども、厳重に“塩漬け”にされているのだという。
「医師ガシェの肖像」が(史実として)たどった数奇な運命は、それだけで一冊のノンフィクションが書かれている(シンシア・ソールツマン『ゴッホ「医師ガシェの肖像」の流転』文春文庫)くらいだが、ゴッホが死んだ当時はなんの価値もない絵だと思われていた。その証拠に、ゴッホの弟テオの未亡人が1897年に売却したときの値段はわずか300フランだったとい。その絵柄も、本書の登場人物に言わせれば、
「眠たそうなおっさんが片肘(ひじ)をついて座っている。(中略)こんな絵が引っ越しの荷物の中に混ざっていたら、手伝いにきた友だちにやるだろう」
忌憚のないこのコメントが象徴するように、「芸術の価値とは何か?」という問いが小説全体の隠しテーマになっている。イトマン事件で暗躍したバブル紳士たちや当時の実際のエピソードが小説の下敷きに使われ、ジャーナリスティックな興味も満たされる。
その一方、コンゲーム小説としての面白さも抜群。ストーリーテリング、人物配置、意表をつく展開と、どれをとっても間然するところがない。巻頭で献辞を捧げられているポール・ニューマンとロバート・レッドフォードは、「明日に向って撃て!」の名コンビだが、ここに名前が出ているのは、同じジョージ・ロイ・ヒルが監督したもう一本の傑作、「スティング」(1973年)のためだろう。コンゲーム映画の名作中の名作として知られるこの映画と真っ向から勝負しますよと、のっけから宣言しているようなもので、見上げた度胸というべきか。じっさい本書は、「スティング」相手に一歩も引かない堂々たるファイトを見せてくれる。
第14回日本ミステリー文学大賞新人賞で本書を絶賛した綾辻行人の選評にいわく、
「冒頭からするりと物語に引き込まれ……たいへん愉しく読み通せた。(中略)達者な文章で綴られるストーリーは容易に先を読ませずサスペンスフル。読み手に与えるストレスとそのリリースの案配がとても優れているうえ、洒落っけたっぷりの外枠が読後感の良さに貢献しているのも美点だと思う」
この讃辞のとおり、非常に後味のいい着地が本書の特徴。この手の小説で、どんでん返しの意外性とプロット上の必然性を両立させるのはきわめて難度が高いが、『大絵画展』はそのハードルをあっさりクリア。イトマン事件までからめた背景設定の生臭さとは対照的に、それこそ「スティング」ばりの鮮やかな“とどめの一撃”を決めてくれる。読み終えたあと、あらためてタイトルを眺めて、つくづくよくできた小説だという感慨を抱く人も多いのではないか。それにしても、一度でいいから見たかったなあ、大絵画展……。
――という読者の願望に応えるべく、この新潮文庫版では、「ガシェ」のみならず、ロートレック「ムーラン・ルージュにて」、ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」など、作中に登場する数々の名画をカラー口絵で収録。“ミニ絵画展”が楽しめる。
(おおもり・のぞみ 翻訳家)