書評

2024年1月号掲載

哲学と科学を合わせ鏡に世界を理解する試み

ファルシッド・ジャラルヴァンド『サルと哲学者―哲学について進化学はどう答えるか―』

仲野徹

対象書籍名:『サルと哲学者―哲学について進化学はどう答えるか―』
対象著者:ファルシッド・ジャラルヴァンド/久山葉子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507381-7

 哲学と科学というと、文系と理系の両極端、相当に異なった分野だという印象をうける人がほとんどだろう。しかし、かつては科学も哲学の一分野だった。英語では博士号を Ph.D.、ドクター・オブ・フィロソフィー――直訳すれば「哲学博士」――と呼ぶのはそのなごりである。それどころではない、すべての学問分野が「そもそもはどれも哲学なのだ」と言い切るイラン出身のスウェーデン人微生物学者による「哲学書」がこの本だ。
 大胆といえば大胆である。「進化論の偉大さ」を基盤に、「進化の科学と哲学を合わせ鏡」にすることにより「思想家と研究者がまったく異なる分野においてこの上なくエレガントにお互いを補完し合っている」ことを示そうというのだから。しかし、合わせ鏡の喩えは絶妙だ。鏡の合わせ方によって見え方が遷移し、無限の広がりを見せてくれる。そんな内容をわずか二百ページあまりにまとめてあるのだから、まるでマジックだ。
「唯物論的な世界観」に基づいたこの本、全編を通じて疾走感が半端ではない。第一章「人生の意味とは?」では、「人生の意味を推測しようとした思想家たちの努力」について、ソクラテスからアリストテレス、ストア派、エピクロス派、キリスト教とイスラム教における天国、ショーペンハウアーからニーチェへと一気に紹介される。ここまできて、進化、一般的な意味での進化ではなく科学的な定義を持った進化が顔を出す。
 すなわち「進化には目的がなく、自分は偶然の産物」だと考えれば「人間にとっての人生の意味など、探求しようとしても進化にぶつかって行き止まりになる」という、だから理系の短絡的な考えはイヤなのだと思われかねない結論が導かれる。これでは哲学に対するちゃぶ台返しではないか。しかし、ここで終わらないのが合わせ鏡のいいところだ。ついで、科学の鏡として二〇一四年に『サイエンス』誌に掲載された研究が紹介される。
 自分自身に電気ショックを与えることができる装置だけが置かれた個室に十五分間隔離されるという、退屈に対する反応についての実験である。その部屋で過ごすように命じられるのだが、その短い時間を耐えきれず、なんと男性の六十七%、女性の二十五%が、肉体的な苦痛となる電気ショックのボタンを自発的に押したのだ。ここから、「意味のある現象」は無目的である進化にも実在しており、その根源は退屈であると結論づけられる。そして、哲学の鏡へと像は戻り、「退屈を真剣な哲学のテーマだと見做していた」キェルケゴールとハイデッガー、さらには「取るに足らないことにも意味を見出す」カミュの『シーシュポスの神話』へと話は引き継がれていく。
 第二章「人間の道徳はどこから生まれるのか」は、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフに始まり、カント、ベンサムとミル、ヒュームへと進む。そして一転、正義感や罪悪感といった道徳は単なる社会構造ではなく、進化において本能として獲得されてきたものであるという近年の科学的研究成果が紹介される。当然ながら、古典的な道徳哲学は科学的な知見によって再検討されるべきであり、それに反する説は否定されざるをえない。
 人類の祖先は、食物を得るために相互依存する必要に迫られた。それが脳に道徳の神経回路を進化させたのだ。「ラスコーリニコフが質屋の老婆を殺したことに罪悪感を覚えたのはつまり、二百万年前にサバンナから果樹が消えたせいなのだ」などという言説を読むと、なんだかわくわくしてしまう。
 以後の三つの章で取り扱われる素材を簡単に紹介しておこう。第三章「自己とは何か」はカフカの『変身』、デカルト、ヘーゲル、不死のヒト培養細胞ヒーラ。第四章「人間は形成可能なのか」はフランケンシュタイン、プラトン、ダーウィンの従兄弟であるゴルトンによる優生学、ゲノム編集。第五章「何が社会の興亡につながるのか」はマキャヴェッリ、ホッブズ、ルソー、パンデミックの分子生物学。合わせ鏡に次々と映し出される像を心ゆくまで楽しめた。
 融合研究や学際研究を進めるべきであると声高に叫ばれるようになって久しい。しかし、残念ながら、それは決して容易(たやす)いものではない。核分裂が自然に進むのに対して、核融合には莫大なエネルギーが必要である。それほどではないにしても、自ずと進んだ学問の専門化に対して、その統合には相当な豪腕が要求される。そんな力業を飄々となしとげたこの本、短いけれど読み応えは十分。
「サルと哲学者、それは同じ一つの存在だ」というのが、このタイトルをうけての結論である。存在論としては確かにそうかもしれない。けれど、読み終えた時、少しだけだが、サルよりも哲学者に近づけた気分になれた。


 (なかの・とおる 生命科学研究者)

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