対談・鼎談

2024年1月号掲載

新潮新書『親ガチャの哲学』刊行記念対談

「親ガチャ」を超えるために

戸谷洋志(哲学者) × 東畑開人(臨床心理士)

“生まれるのは偶然、生きるのは苦痛”と言うけれど――。
自己責任論でもなく、責任概念の放棄でもなく、〈親ガチャ的厭世観〉から抜け出せるヒントとは。

対象書籍名:『親ガチャの哲学』(新潮新書)
対象著者:戸谷洋志
対象書籍ISBN:978-4-10-611023-8

東畑 戸谷さんの『親ガチャの哲学』(新潮新書)、大変面白く読みました。親ガチャという問題を扱おうと考えたきっかけは何だったんですか?

戸谷 「親ガチャ」の問題は、実は僕の中では結構前から気になっていたんです。2017年に南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターの『生まれてこないほうが良かった』という反出生主義の本が翻訳されたとき、かなりのブームになったことに違和感を覚えたのが始まりでした。

東畑 本の中では、『ONE PIECE』や『進撃の巨人』から反出生主義を説明していましたが、要するに「生きることは明らかに快楽よりも苦痛の方が大きいので、人間は生まれてこない方が正しい」という考え方ですよね。

戸谷 はい。研究者の中では前から知られていて、学術的にはそこまで影響力のある思想ではなかったのですが、一般の人がシンポジウムに押しかけてくるぐらい、世間での反響が凄かったんです。そのギャップの激しさに僕自身打ちのめされてしまって……。

東畑 というと?

戸谷 反出生主義的な思想、つまり「人間は生まれてこない方がいいんだ」という思想を学術的に言ってくれることを、世間が求めている。僕には、それが救いのないニヒリズム(虚無主義)に見える。これは一体、何がもたらしているのだろうかと。

東畑 なるほど。ニヒリズムという言葉自体は結構手垢がついていて、今まで真面目に考えたことがなかったのですが、聞いていて切実な問題だなと思いました。よく考えてみると、心の問題を抱えるとは、ある種のニヒリズムに覆われるということでもありますね。希望が消えて、絶望に包まれる。

戸谷 一方で、「反出生主義」や「親ガチャ」に漂うニヒリズムを、単に個人の問題として終わらせてはいけないとも感じたんです。

東畑 親ガチャについて戸谷さんは「社会の責任」と「自分自身の責任」、両方の視点から扱っていましたよね。これは心の臨床でいう、社会モデルと個人モデルですね。車いすの人が階段教室に入れない。このとき、その人の足に問題があるわけではなく、教室にスロープがないことが問題である。そのように環境側に問題を見出し、改善をしていくのが社会モデルです。僕もカウンセリングに来る人たちと話していて、最初はそうやって外側の問題を考えます。暴力を止めたり、足りないものを供給するという発想です。ただ、時々社会の側ではなく、やっぱり自分内部の問題として引き受けなければいけない悩みもあるなと感じることがあります。そういうときに、個人の中に問題を見出す個人モデルが発動されます。

戸谷 近代哲学の枠組みの中では、人間というのは自由な意志を持っていて、自分の人生をその意志を持って選択ができる。だから、それによって引き起こされた結果については自分で責任を負わなければいけない、とされてきました。

東畑 いわゆる自己責任論的な考え方ですね。

戸谷 はい。ところが20世紀になってナチスドイツが台頭し、組織の命令に抗いがたく、集団に同調してしまう側面が人間にあると明らかになる中で、必ずしも我々は自分の意志で自分の行為をしているわけではないことが分かってきます。「責任の問題」は、実は未だに決着のつかないテーマなんです。

「自分の人生を引き受ける」とは?

東畑 「責任の問題」についてはハイデガーを引用していましたね。

戸谷 彼は『存在と時間』の中で、「無の問題」というのを提唱します。これは、私が行った行為は、確かに環境によって決定されているかもしれない。だけれど、その環境に生まれてきたのが私であったことには何も根拠がない、という主張です。少し難しいのですが、「行為の責任」はあるけれど、「存在の責任」はない、というわけです。

東畑 「存在の責任」って、どのようなものですか?

戸谷 自分の人生を、自分のものとして理解するとか、引き受ける、といったことを意味します。例えば、第二章では、自分の人生を引き受けられない、責任を取れない人の例として「無敵の人」を取り上げました。

東畑 「無敵の人」というのは、社会的に失うものがなく、他人を巻き込み犯罪を起こしてしまう人、とされていますね。本の中では、秋葉原通り魔事件の加藤死刑囚が取り上げられます。

東畑開人
東畑開人 臨床心理士。
専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。
『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』
『ふつうの相談』など著書多数。

戸谷 彼は裁判で「自分がこういう人格になってしまったのは、すべて親の責任だ。自分が何をしても、自分には責任がないんだ」と語っています。自暴自棄になって自分の行動の責任を自分で取れなくなってしまっている。これを反対側から考えると、「責任の主体である」ことは、ある種自分に配慮する気持ちや自尊心に繋がってくるのではないかと僕は思っていて、本書ではその重要性を強調しています。

東畑 責任があるからこそ、自分に配慮できるようになるということでしょうか。この箇所を読んでいて思ったのは、「悪いことをしたな」と思うためには、他者が必要であるということです。孤立しているときには、悪いことをしたと思うことは難しい。自分しか自分を肯定する人がいないときに、自分まで自分を否定してしまうことは致命的なことですよね。そういう意味で、壊れない関係性にある他者がいるからこそ、その関係を傷つけてしまった自分について振り返ることができると言えます。

戸谷 つまり、自分が傷つけてしまった相手ときちんとした関係性があるから、相手を傷つけたことをかえって受け入れられる。ひいては自分の行為の責任を自分で取ることができる、ということですか。

東畑 それが難しいんですけどね。

戸谷 それは考えたことがない発想で、すごく面白いです。加藤死刑囚は「もし私の話を聞いてくれる人がいたら、こんなふうにはならなかったかもしれない」ということを書いているんです。誰か関係性を築ける他者との出会いがあったら、彼も違った道をたどれたのかもしれないなとは思います。

東畑 他者を求める気持ちがあったということなんですね。最近読んだアウグスティヌスの話を思い出しました。彼はローマカトリックの司教であり、哲学者なんですが、若い頃に信仰していたマニ教を批判するんですね。すごくざっくり説明すると、マニ教の教えでは、世界には光と闇があって、悪い奴が闇に潜んでいて、悪いことはその存在によって起こっている――そんな考え方を持っている宗教です。だから自分が悪いことをしても、その責任は自分に帰属しないんですね。

戸谷 なるほど。

東畑 アウグスティヌスは同じ文脈で占星術を批判しているんです、つまり星ガチャです。本書で言及されている決定論と似ていませんか?

戸谷 確かに。この世界で起こる自然現象はすべてあらかじめ決定されている、というのが決定論的思想です。本書では、若者たちが親ガチャという決定論的な考え方によって自分の人生に絶望を抱いてしまう……というところから、いかに自己を肯定する方へ抜け出すかを論じました。

東畑 アウグスティヌスは、マニ教を批判して、「神は絶対的な善であって、悪を作らない。だからこの悪は、その人間自身が選んだものだ」と考えます。いわゆる自由意志論ですね。すべては善なのだけど、善の中でも低い善を選ぶのが人間の自由意志であり、そこに悪が顕現するのだと。これは悪の行為を主体性の結果として見ることです。占星術的価値観、つまり星ガチャに反対して、自分の悪なる部分を認め、自分の人生として引き受ける、これが戸谷さんのいう自己肯定感とつながるなと感じたんです。

肯定してくれる他者が必要だ

東畑 アウグスティヌスの書物を読むと友達の話がたくさん出てくるんですよ。彼は愛の人だと思います。人生の中に色々と愛する人がいる。中でも、若い頃にいい友達がいたんだけど、そいつが死んでしまったのを嘆き、それもまたマニ教からキリスト教へと回心するプロセスになっていきます。

戸谷洋志
戸谷洋志 哲学者。関西外国語大学准教授。
専門は、哲学・倫理学。
著書に『ハンス・ヨナス 未来への責任』
『友情を哲学する』などがある。

戸谷 『告白』ですね。

東畑 そうそう。彼の思考で面白いのは、すごくいい友人に恵まれているにもかかわらず、結局友達はまやかしで、最終的には神と一対一で向き合うのが大事だ、みたいな考えに収斂していくところ。僕はこれが本質だなと思います。キリスト教というのは、横のつながり以前に、まずは縦のつながりなんですね。これはかなり厳しい思想です。対して、現代のメンタルヘルスケアは、まずは横のつながりという方向になっているように思います。自分を肯定してくれる友達がいる、その上で、自己と向き合うフェーズがやってくるという順序ですね。

戸谷 東畑さんの心理療法論であり、友人論である『ふつうの相談』(金剛出版)を読んだときにハッとさせられたのが、「そんなの普通だよ」という言葉でした。一方においては、普通はこうだから、みたいな形で排除する力になるけれど、もう一方においては、そんなことで苦しむのは普通だよ、という包括する力になるんだと。

東畑 臨床的に言えば、友達がいないときに自分と向き合うと、どうしても悪いことばかり考えるからよくないと思うんです。親ガチャの問題に戻ると、やっぱり「わかるよ」っていってくれる存在が必要なんです。戸谷さんの言葉を使うなら、「連帯できる他者」になるのでしょうか。

戸谷 僕は哲学カフェという対話型ワークショップをずっとやっているんです。半分遊びみたいなものなんですけど、愛とか正義とか友情とか、そういったテーマについて見ず知らずの人が色々と喋る。専門用語は禁止して、自分の言葉で話してもらうようにしています。そうすると参加者自身が、「自分ってこういう考え方をしているんだ」と気づくんですね。部屋に閉じこもって自分と向かい合っても、多分この認識にはならないんじゃないかな。

東畑 カウンセリングで一番重要なのは、誰かが一緒に考えてくれるっていうことだと思うんです。戸谷さんが本の中で自己責任論への批判をしたのは、要するに自分に責任があるとして、一人では責任を取り切れないことがあるからだと思うんですよね。

責任は誰のものか?

戸谷 そうなんですよ! 哲学の文脈だと責任は個人とか集団とか、あくまで単一の主体に帰属するものなんですけど、実際にはもっと重なりあっているんじゃないか。責任を取ることはそんなに単純ではない。

東畑 つまり責任を取るのがいかに大変かということですね。実際には、責任の分担ってある種の幻想ではあるんです。本当の最後の最後は、つまり司法の場になったら、自分の選択には自分で責任を取らなければいけないことになります。それは事実です。でも責任の分担という幻想があることが重要だと思うんです。それが人を孤独から守ります。切迫した時間を緩めてくれます。そういうつながりの中にあってはじめて、僕らは逆に責任を取れるのだと思うんですね。

戸谷 はい。ただ「親ガチャ」の問題の難しいのは、自分で「生まれてくる」ことを選択できないところにあると思います。「子ガチャ」とか「家電ガチャ」なんて言葉も登場しましたが、それらはあくまで主体的な選択が可能ですよね。

東畑 子供を産むかどうかを親は選べるし、家電を買うかどうかも選択可能ですからね。だけど、この世に生まれるかどうかは選べない、ということですか。

戸谷 そうです。だからこそ自己責任論だけで終わらせてはいけない、と強く思っています。

東畑 責任ということがいかに複雑なものであるかを考えさせられました。

戸谷 本書がこの重要性をもっと多くの人に考えてもらうきっかけになればうれしいです。


 (とや・ひろし 哲学者/とうはた・かいと 臨床心理士)

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