書評

2024年2月号掲載

『メンタル脳』刊行記念特別寄稿

脳は「昔のままの世界にいる」

アンデシュ・ハンセン、マッツ・ヴェンブラード『メンタル脳』(新潮新書)

池上彰

対象書籍名:『メンタル脳』(新潮新書)
対象著者:アンデシュ・ハンセン/マッツ・ヴェンブラード/久山葉子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-611024-5

 昔に比べれば快適な暮らしができるようになったはずなのに、なぜ私たちは不安に苛まれ、メンタルを病んでしまったりするのだろう。とりわけコロナ禍以降に、精神状態が不安定になった人が増えたという。これは大人の世界ばかりでなく、子どもたちの世界でも同様だ。むしろより深刻かもしれない。
 文部科学省によると、2022年度の小中学校における不登校者数は29万9048人と、ほぼ30万人に達した。これは過去最多。さらに警察庁と厚生労働省の統計によると、2022年の小中高の児童生徒の自殺者数は514人と、こちらもまた過去最多を記録している。
 なぜ私たちは精神的に苦しむのか。もちろん原因は多様だろうが、その大きな理由は、私たちの脳が、「昔のままの世界にいる」からだという。脳の勘違いによって、私たちは不安になったりするというのだ。そう知ると、少し気持ちが楽になるのではないか。
 著者のアンデシュ・ハンセン氏はスウェーデンの精神科医。人間の進化の過程からすれば人間の精神はデジタルに対応できない。だからスマホから離れる必要がある。著者がこう説いた『スマホ脳』は世界的にベストセラーになった。
 となれば、出版社は著者に次作の執筆を要請することになる。こうして出版されたのが『ストレス脳』で、これを10代向けに書き直したのが本書だ。ティーンエージャー向けなので、易しく読めるが、「そうだったのか」と知る事実が満載だ。
 私たちが生きているのは、私たちの祖先が生きのびることができたから。私たちの身体や脳は、生きのびて子孫を残すために進化した。そのために脳は、あらゆる危険を遠ざけようとする。そこで使われるのが「感情」だ。恐怖や不安という感情を使って本体を生きのびさせてきたという。人間の先祖はアフリカのサバンナで狩猟採集民として暮らしていた。その時代は、子どもの半数が10代になる前に死んでいた。私たちの脳は、いまだにその世界に住んでいると勘違いしている。
 サバンナでの生活は過酷だった。草むらで何かが動いただけでびくりとするのは、「危険な動物が隠れているかもしれない」と思うからだ。「独りぼっちになるのも嫌いで、群れの中にいられるように全力を尽くします。サバンナでは群れで暮らすのが1番安全で、独りになったら死んだも同然だったからです」と解説されると、なるほどと思う。だから私たちは「独りぼっちだ」と思うと、不安という「感情」に動かされ、仲間の集団に入ろうとするわけだ。孤独が怖いのは当然だ。長期間の孤独は、サバンナでは死を意味していたのだ。
 どうせ感情に左右されるなら、幸せな気持ちが長続きした方がいい。そう思うだろう。しかし、幸せな気持ちが続いていると、人間は次の行動に移ろうとはしなくなる。サバンナでボーッとしていたら、いつ猛獣に襲われるかもしれないし、食べ物が手に入らずに飢え死にしてしまうかもしれない。そう考えると、脳としては、幸せな気持ちをなるべく短くした方が生きのびやすいと判断するだろう。こうして私たちが幸せに感じる時間はすぐに終わってしまうのだ。それは不満かもしれないが、脳がそのように判断してきたからこそ、私たちの祖先は生きのびることができたというわけだ。
 では、ストレスはどうして起きるのか。それは「闘争か逃走か」と呼ばれる状態になるからだ。サバンナに生活していたら、危険はつきものだ。何か起きるたびに、「ここは闘争つまり戦う場合か、それとも逃走、逃げる場合か」を判断しなければならない。これがストレスだ。
 これに対し「不安」は「事前のストレス」だという。たとえば先生に怒られた人はストレスを感じるが、「明日、先生に怒られたらどうしよう」と考えるのが「不安」だという。不安を感じるのは嫌なもの。でも不安とは脳が「何かがおかしい」と私たちに知らせるための手段なのだという。であるならば、不安を感じたら、「脳はどんな警告を発しているのだろうか」と考えるだけで、不安はかなり解消されるのではないか。それでも不安に感じたら、「脳が勘違いしているな」と思うこと。これで不安はだいぶ解消されるだろう。


 (いけがみ・あきら 東京工業大学特命教授/ジャーナリスト)

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