書評

2024年2月号掲載

圧倒的な空白をとらえようとする言葉たち

マルコ・バルツァーノ『この村にとどまる』(新潮クレスト・ブックス)

彩瀬まる

対象書籍名:『この村にとどまる』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:マルコ・バルツァーノ/関口英子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590192-9

 イタリア北部の南チロル地方に、一風変わった景観で有名な湖がある。雄大な山々に囲まれた広い湖面からすっくと一本、古い教会の鐘楼が突き出たその湖は、七十年ほど前に二つの村を沈めて作られた貯水湖だ。現在は多くの観光客が訪れ、鐘楼を背景に笑顔で写真を撮っていく。
 物語は、湖に沈められたクロン村にかつて住んでいた一人の女性、トリーナによって語られる。いや、綴られる。この物語は初めから最後までトリーナから、この村を襲った動乱の中で生き別れとなった娘・マリカへ宛てた手紙という形式でつむがれている。出されるあてのない手紙。内容の伝達を目的としていない手紙。書かれるたびに戸棚にしまわれ、表に出ることなく堆積し、やがて失われる無数の言葉の地層を、私たちは読む。ひそやかに。読者であるという特権のもと。
 トリーナは娘に語りかける。この村に生まれた自分の半生を、ファシズムの台頭によって母語が奪われ塗り替えられた村の景色を、ナチズムの移住政策によって引き裂かれる人々を、戦争が家族に与えた痛手を。ようやく平穏が訪れたかと思いきや、押しとどめようのない横暴さで村を呑み込んだダム建設工事を。そして、そんな度重なる歴史の暴力にさらされる村に、とどまり続ける自分たちの姿を。淡々と、抑制の利いた筆致で書き続ける。それはトリーナが言葉を自分を救っているものだと信じ、支えとする人だからだ。大切な言葉。剥奪された言葉。人種を分断する符号とされた言葉。本来の美しさがかき消され、憎しみの対象として出会う言葉。
 言葉を追いかけるこの物語は、やがて言葉の無力さに突き当たる。トリーナから娘へ宛てた出されない手紙は、その象徴と言えるだろう。そもそもトリーナは、娘と生き別れになったことで家族に訪れた闇のなかの日々を「言葉でたどることなど意味のない話」と位置づけ、多くを書こうとしない。体に染みついていながら、決してお互いに口にすることのない秘密めいた悲しみ。言葉によって綴られたこの手紙、この物語は、序盤から言葉の及ばない空白を内側に秘めている。時間が経ち、村が歴史の暴力にさらされるにつれ、空白はふくらみ、手紙の宛て先との距離は広がり続ける。
 出されない手紙だけでなく、出された手紙もあった。ダムの建設工事が進むにつれ、トリーナは自身の内側から湧き上がる故郷への思い、豊かで平和な土地をダムのために犠牲にすることの野蛮さについて、怒りと混乱を紙に書き留めた。できあがった文章はダム建設の反対運動をしていた夫の手で様々な新聞社へ送られることとなった。村を襲った理不尽を率直に訴えるトリーナの言葉は人々の心を動かし、農業大臣を村へ呼び、さらにはトリーナの夫をローマ教皇と謁見させる事態まで引き起こした。しかし村から放たれた言葉に対して、村の外から送り返されるのは、同情的で親身な、言葉でしかなく、それだけでは目の前で進行する工事をとめられない。
 やがて読者は、現在の景色である貯水湖のほとりに立つことになる。村が消滅する経緯を記した案内板や資料館はあれど、やはりそれだけでは沈められた村でなにが起こったか、どんな人間がどんな心持ちで生きていたかは分からない。表面上の穏やかさを取り戻した風景に残るのは、村を呑み込んだ広大な湖にも似た、圧倒的な空白だ。
 そして驚くべきことにこの物語は、言葉の無力さ、歴史の暴力が作り出す圧倒的な空白をつぶさに書くことで、その地にあった「言葉でたどることなど意味のない」話、その場にいた者にしか分からない話、失われた物事の、膨大な質量を描き出すことに成功している。出されるあてのない手紙を読み終えた読者は、本を閉じてそれぞれの土地を見回した際、これまでけっして案内板では分からなかった、失われた物事の質量を景色のあちこちに見出すことになるだろう。言葉はときに無力だ。しかし言葉が及ばない空白を正視し、その輪郭をなぞることで、空白そのものをとらえることができるのもまた、言葉なのだ。苦しみの果ての湖畔で、この物語が結晶化させる一粒の真理に胸を打たれた。


 (あやせ・まる 小説家)

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