書評
2024年2月号掲載
赤川次郎の手強さ
赤川次郎『暗殺』
対象書籍名:『暗殺』
対象著者:赤川次郎
対象書籍ISBN:978-4-10-338140-2
小説を読みながら登場人物に我が身を重ね(もしも自分だったら)と考えることは少なくない。
本書の視点人物のひとり工藤麻紀は、大学受験の当日、衝撃的な事件の現場に居合わせる。余裕をもって家を出たにもかかわらず、思いがけず時間ぎりぎりの到着になってしまった大学の最寄り駅の階段ですれ違った男性が、直後に射殺されたのだ。胸を押さえて苦しそうに呻く姿も、その指の間から溢れる赤い血も、更に銃弾を撃ち込まれる様子も、そして拳銃を握り引金を引いた男の顔も、麻紀は見てしまった。犯人の男とは、はっきりと目も合った。
しかし麻紀は、救急車を待つことも警察に通報することもなく、その場から逃げ出した。「私、知らない。――何も知らない」と口のなかで何度も繰り返しながら。
自分が麻紀の年齢で同じ状況だったとしても、逃げるだろうな、と思ってしまった。何しろ人生を左右する本命の大学受験日だ。救急車は他の人が呼んだし、撃たれた人は助かりそうになかった。犯人は警察が探すだろう。知らない。考えたくない。大人がどうにかしてよ、と目を逸らすに違いない。
一方、温泉旅館の仲居として働く佐伯芳子は、十年前に別れた元夫・竹内貞夫の携帯番号から着信があり戸惑う。訝りながら出てみると相手は警察で、竹内が殺されたので身元確認のため東京へ来て欲しいという。日帰りできる距離ではない。別れてから一度も連絡していない、死んだと聞いても涙も出ない男のために仕事を休んでまで上京する? 自分ならどうだろう、とまた考えてしまう。
芳子に電話をかけた竹内射殺事件の捜査にあたっている五歳の娘をもつシングルマザーの刑事・西原ことみも、大きな選択を迫られる。竹内の事件はほどなく容疑者が逮捕されるのだが、捜査の過程で犯人は別にいると確信していたことみは納得がいかず、これでいいのか、いいわけがないと自問自答する。警察としては「終わった」としたい事件に拘り続けるリスクは十分に分かっている。でも、だけど――。
同様に「目撃者」である麻紀も、自分の記憶とは明らかに違う男が逮捕されたニュースに心が揺れる。容疑者として発表された写真は、あのときの男とは似ても似つかない。だからといって今更何ができる? 関係ない。自分には関係ないと言い聞かせようとするが、結局目を逸らし続けることはできなかった。
今日着る服、ランチのメニュー、どのルートで出かけるのか、優先すべきことは何か。平穏な日々であっても、誰もが数えきれない選択を繰り返して毎日を生きている。そのなかで、ふいに現れる重要な分岐点。フィクションだという気軽さと同時に、読みながら何度もどうする? どうしよう!? と考えさせられる。赤川次郎の小説は、この日常から地続きにある「異変」と「共感性」が読みどころではあるが、本書はそこに潜む暗部にも切り込んでいく。
芳子に届けられた、死んだ竹内からの小包に入っていた、幼い女の子の着古した洋服としみのついたままの下着。ことみが捜査中に聞き及んだ「先生」の正体。麻紀の友人・ルミを妊娠、中絶させる交際相手。
竹内を射殺した真犯人は、麻紀の協力もあり、やがてことみも知ることになる。けれどそれで事件解決、とはならない。竹内は何故殺されなければならなかったのか。浮彫りになる罪は、どす黒く醜悪極まりない。しかも勧善懲悪とばかりに見事罰せられるわけでもない。どれほどの罪でも、相応(ふさわ)しい罰が下されるとは限らず、「最善」とされるものは、人によって、立場によって違う。そんなことはない、悪は悪だと思いたい。けれど、現実世界にも手の届かないこうした暗部があることを、私たちはもう知っている。
竹内を射殺した「暗殺者」が、覚悟を持って最後の「仕事」に挑む場面がいい。一流ホテルの豪華な吹き抜けのロビー。結婚式の記念写真を撮る新郎新婦の純白の衣装。暗殺者が脱ぎ捨てる白いコート。その右手に握られた拳銃。引金が引かれ、銃声、そして――。鮮烈な映像が目に浮かぶ。情報を入手し、かけつけたことみ、居合わせた麻紀とルミ、そして暗殺者自身の覚悟と心情が、一気に押し寄せてきて胸が熱くなる。
タイトルの「暗殺」が意味するものは何なのか。
もちろん、ことみが「本当のプロだったのね」と語ることになる暗殺者を指してもいるだろう。けれど、それ以上に目を背けることで暗に殺している物事について、声をあげても聞き入れられることなく暗に殺されていく物事について、問いかけ、投げかけられていると感じた。
何を選ぶか。どう生きるのか。赤川次郎の手強さをじっくり堪能して欲しい。
(ふじた・かをり 書評家)