書評

2024年3月号掲載

特別エッセイ

錯覚は恋の中

マリ=フィリップ・ジョンシュレー『あなたの迷宮のなかへ―カフカへの失われた愛の手紙―』によせて

最果タヒ

対象書籍名:『あなたの迷宮のなかへ―カフカへの失われた愛の手紙―』
対象著者:マリ=フィリップ・ジョンシュレー
対象書籍ISBN:978-4-10-590193-6

 手紙に書く言葉は、どこか、その人と私という物理的な距離や、境界を無視して、そうした「別の体をそれぞれ持つ二人なのだ」ということを忘れさせて、どこまでも世界に溶けていける魂が二つ、共鳴しあったり、反発しあったりして会話をしているような錯覚に陥る。目の前にその人がいない、その人が自分の言葉にどんな反応をするのか、リアルタイムで知ることができない、というのは、何かを発するたびに「うまくは伝わっていないのかもしれない」と躊躇することを忘れさせ、だんだんと、自分の書く言葉はどこまでもその人に届いていくのではないかという期待に飲まれていく。
 それは間違いではないのかもしれない、そうやって相手を手放しに信じて書かれる言葉が、読む側にとって(書き手の意図の通りに受け取っているかはわからなくても)大切な光を放つことはある。なぜなら全身で、全力で、魂そのもので、相手を信じ抜いて書かれた言葉だからだ。疑うことを知らず、愛するという決意以上のものがある。それはけれど、同時に「肉体を忘れている間だけ」可能な言葉でもあるのだと思う。
 どこかで、人はそんな期待を常にしているのかもしれない。境界があることを忘れて、全力で信じ抜いて、言葉を預け、言葉をもらう。好きな人なら尚更、そんなふうに心を通わせたい。言葉が不確かで、完全に気持ちを伝えることは困難だとわかっているからこそ、余計に、伝わると信じて、書けることは幸せだ。たとえ完全にはそうではないのだとわかっていても、自分の心を精一杯書き綴れば、その人は受け止めてくれると信じられるなら、その時点で伝わる伝わらないに関係なく、私なら「幸せだ」と思うだろう。
 この作品のミレナだってそうだったのだろう。どこまでも、自分の気持ちを書いて、そうしてその人が受け止めてくれる。それはどんな返事をもらうことより、もしかしたら、理想的な応答だったのかもしれない。ミレナはある時期までカフカに全てが伝わるのだと信じられていた。それは恋とも言える。恋だと足りないとさえ思う。世界に自分のすべてを祝福されているようなそんな赤子の頃の感覚を、取り戻すような。そんな多幸感だろう。それをくれるのがただ一人の人だという実感が、また途方もない奇跡を感じさせる。

 その奇跡を知ったからこそ、余計に、心と体、その全てで愛することをミレナは望んだ。言葉だけのやりとりではなく、その向こう側にあるものを望んだ。けれど同時に、目の前にその人がいること、時間を置くことができない話し言葉でのやりとりが、奇跡によって溶け合った心を、むしろ遠ざけることもある。書く言葉でのやりとりで通じ合えていたような感覚は、「錯覚」である可能性の方が高い、と私は思うけれど、人は錯覚の中でしか人を愛せないようにも思う。錯覚の何がいけないのか、私はわからないから、こう書くのだけど。錯覚は悪くなくて、錯覚を「錯覚だ」と冷や水をかけてやめさせることが悪いのだ。
 全てを差し出すように愛を述べることは人にはとても難しく、幻の力を借りるしかない。

 人は夢を見る。現実そのものではないもの。そしてそれが現実を見ることよりも劣っているかというと曖昧だ。人は、不安や不信や、悲しみや恐怖を、現実からのみ見出すのではない。いつも何かから追われていて、苦しむ時ほど、それらが現実のものでなくても、「きっとくる」と確信してしまう。そうしたものを撥ね除けるのは、また別の、現実ではない何か。そこにあるから見えるのではなく、「私が信じるから」見えるもの。人には心があり、感情がある、ただの肉体だけではなく。肉体とは全く異なる「私」が、現実とは全く異なる「夢」を見ていられる。それもまた一つの、その人の人生に根差した風景なのだ。そしてそこに愛があるのかもしれない。
 だから、錯覚であることは何も間違いではなく、ただそれでもそれらを「錯覚」だと意識してしまう瞬間が来てしまったら恐ろしい。人は夢を見る時ほど、自分の体に染みついた現実のことを意識する。現実を忘れるために夢を見るのではなく、現実と隣り合うものとして夢を見るからこそ、現実を捨てられない。距離を保ち、言葉だけで愛し合った二人が、近づこうとするとき、そこにきっと恐れがあって、それは現実が幻に勝ってしまう可能性。決して幻が現実より劣ることなどないのに、いつも人は幻を貫こうとすると、苦しむ。それは、現実を捨てることもまたとても困難なことだから。そこには愛着があり、慣れ親しんだ匂いや、景色、音楽がある。自分の肉体にうんざりすることは多くても、その肉体を全て捨てていくことは案外できない。ずっと生きていた現実には、「現実であること」以上の結びつきがあり、その部分を断ち切れないからこそ、人は幻と現実の狭間で引き裂かれるような心地がするのだろう。

「わたしたちの愛は不可能だったから、あなたはわたしを愛したのです。」

 物理的な距離など最初からなく、心で心に触れ、心で心に触れてもらう、そんな関係から始まるものとして愛を見出せたら、それは理想的な愛なのだろうか。幻そのものから始められる愛の美しさを否定することなく、それでもそれらだけでは人は生きていけないと、はっきりとこの作品は描いている。愛のためにだけ人が存在するのなら最初から肉体は持たない、と私は思う。そうして、人は肉体を持つからこそ、どうしようもない現実を持つからこそ、それらと地続きになることのない遠くの星のような幻に心が奪われる。夢を見る。夢の果てにある愛を信じる。その星に向かって、まっすぐに大地を歩くことは、一人の人間が人生を己のために真摯に生きる一つの術なのだ。たとえ、星そのものにたどり着く日はなくても。まっすぐに星が照らすその人の、背後に、美しく伸びた影がある。

(さいはて・たひ 詩人)

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