書評

2024年3月号掲載

最晩年の新しい冒険

ガブリエル・ガルシア=マルケス『出会いはいつも八月』

旦敬介

対象書籍名:『出会いはいつも八月』
対象著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス
対象書籍ISBN:978-4-10-509021-0

『出会いはいつも八月』は、コロンビアのカリブ海地方で生まれ、2014年にメキシコ・シティで没した作家ガルシア=マルケスの最後の作品と、とりあえずは呼べる。作者が認知症によって執筆できなくなる直前の時期に書いていたという作品で、時期的には、『わが悲しき娼婦たちの思い出』を書きあげた直後から2004年にかけて取り組んでいたようである。前半はいかにもガルシア=マルケス的な表現の多い作品としてしっかり書かれているのに対して、後半に行くにつれて、徐々に時間軸の矛盾や、人物造形の乱れなど、不完全な部分が目立つようになっていく。いちおう最後まで書かれて、結末はあるものの、最終的には作家自身がボツにしたものであるため、未完成に終わった作品と見なすのが順当な文書である。しかし、途中までは、かなり乗り気でOKを出していた。
 最終章にはとくに、さまざまな要素が説明不足のまま放りこまれているような乱雑さが感じられ、それゆえ、かえってガルシア=マルケスが作品をどのように彫琢して磨きあげていっていたのか、その途中の形態を覗くことができるような面白さがある。つまり、少なくとも晩年の彼は、作品の全体を均一に書きあげていたのではなく、書きこむ予定の要素やイメージを、部品のようにとりあえず放りこんだものを忘備録的に書いておいて、最初のほうから、章単位で完成形へともっていくような方法をとっていたことがうかがえるのだ。そのような意味で、この本は全集に収められて他の作品と同列に読まれるべきものというよりも、作者の手法を読みとる文学的ドキュメントとしての側面が強いといえる。
 しかし、ガルシア=マルケスの作品の中で、めずらしい特徴をそなえているものとして評価すべき面もあり、晩年の彼が新しい挑戦をしていたこともうかがえるのである。ひとつには、はっきりと現代を舞台にしている点だ。ガルシア=マルケス的な世界といえば、ラテンアメリカのどこの国だかはっきりとはわからない場所、そして、いつのことだかよくわからないが、読者の現代と同時代ではないことがはっきりしている時代背景というのが広く見られる特徴だった。それが神話的な時間と言われたりして広く評価されたものである一方、私はそれを彼の空想の中にだけ存在する無時間的な世界と呼んで、批判的にとらえてきた。問題の多い現代のラテンアメリカ社会から目をそらして逃げる方法という面があったからだ。しかし、この作品では明らかに、ガラス張りの高層ホテルが毎年建築されていく現代のカリブ海のリゾート地が舞台に設定されている。
 もうひとつの新しい特徴は、老人の世界が扱われていないことだ。これもまた初期の作品から彼の妄執だったもので、祖父をモデルとするブエンディーア大佐というキャラクターを獲得して、それで評価を得たことによって、その世界からなかなか逃れられなくなってしまった面があるのである。ところが本作では、魅力的な四十代の女性が中心に据えられ、その娘を通じて現代の若者世界までもが視野に入ってきている。若者世界の面はあまりうまく書かれていないのだが、これはやはり八十歳になろうとしていた作家にとっては大きな冒険だったからだろう。
 ラテンアメリカにおいてガルシア=マルケスは、『百年の孤独』が高校での必読図書とされるなどして神格化されたが、その一方、以後の世代からは目の敵にされた面もあった。ラテンアメリカの作家が国外で出版されるためには、商業的に「魔術的リアリズム」と名づけられた彼の手法(先に述べた無時間的な世界や老人の世界はそれと密接にかかわっていた)を踏襲することが期待され、自分たちにとってもっと切実な主題や方法に取り組む妨げになったからだ。また、『百年の孤独』という題名があまりに名高くなって陳腐化したため、スペイン語の作家は「孤独」という単語を使えなくなったというほどなのである。「百」と書けば予測変換によって「百年」や「百年の孤独」と出てくるので、「百」とすら書きたくなくなったと言った作家もいた。
 そのような大作家が、作家としての人生のいちばん最後の時期に、自分を更新して、自分に新しい挑戦を課していたというのは、勇気づけられる知らせではある。

本書「訳者あとがき」より構成しました。

(だん・けいすけ 作家/翻訳家/明治大学教授)

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