書評
2024年3月号掲載
人間の業という、とても愛おしい焔
砂原浩太朗『夜露がたり』
対象書籍名:『夜露がたり』
対象著者:砂原浩太朗
対象書籍ISBN:978-4-10-355531-5
最近よく、“定め”というものについて考えている。人の運命や宿命、必然について。というのも、今やっている舞台の台本にそういった言葉がたびたび登場するからである。
わたしはギリシャ悲劇のヒロインの代名詞とも言われている、王女メディアの役を演じる。彼女は恋のために、両親、さらに祖国を捨ててまで、異国の人の冒険に力を貸す。生まれた国や家が定めの一つだとしたら、その定めに抗うのである。「ロミオとジュリエット」を想像していただければ分かりやすいかもしれない。家同士が敵対している二人が恋に落ち、家よりも恋を選んだということだ。
自分ではどうすることもできない定めに抗うから、ドラマが生まれ、それを観ている者は心を震わせる。本書には、そういった名作悲劇に通ずるものがある。
“長屋が舞台の時代小説”という情報だけを聞くと、落語が好きなわたしはつい滑稽な話や人情話を想像してしまう。だが本作に漂うのは、決して落語のようにカラッとした明るい空気ではなく、じめっとした湿度を持った仄暗さだ。まさに題の「夜露」を感じる。短編八篇を通して、これまで思いを巡らせたこともなかった、長屋に生きる人々の影の部分に焦点を当てる。
「向こうがわ」という一篇では、父親が亡くなったことで、川向こうから本所へ引っ越したのをきっかけに、生活ががらりと変化してしまった十七歳の幹太の孤独が描かれる。小さい頃からの遊び仲間が今は喧嘩相手になってしまい、家では病気がちの母に気を遣い、どこにも居場所がない。もと暮らしていた所は、広小路にもほど近いにぎやかな町。一つ川を挟んだだけで、華やかな川向こうへの妬みや、かつての楽しい暮らしを思い出してうら寂しさが湧く。暮らす環境が人の心を作っていくのだ。
〈裏店で生まれたら、ずっと裏通りなんだよ〉。宿命のように、育った環境が心に刻まれている二人が描かれるのが「幼なじみ」だ。奉公先である日本橋の呉服屋で再会した秀太郎と梅吉。二人が生まれ育った長屋は、とりわけ貧しい一郭で、どぶの匂いが鼻を突くような粗末な所だった。喧嘩や盗みは日常茶飯。ここで生まれたらまともな暮らしは送れない。そこから抜け出すべく奉公に出たはずだったが、哀しい宿命に飲み込まれていくのだ。その様子には、胸が締め付けられる思いにならざるを得ない。だが同時に、生き抜くことへの腹の括り方に格好良ささえ感じ、そこに微かな希望が見えてくるのである。
人には大なり小なり、さまざまな定めがあると思う。生まれ育った環境、家族、仕事、経済状況、性格、むかしの過ち……。それらが選択を制限したり、自分を縛ったりするものになってしまうが、時に自分を守ってくれるものにもなるはずだ。そのすべての事実を受け入れつつ、最終的にはそこから切り離し、“自分の意思”が人生を突き動かす。
「あたしはあたしのもんだっ」
巻頭の「帰ってきた」に出てくるが、一冊を通して最も印象的に響いた台詞だ。自分は自分のために生きればいい。もしその決断が、傍から不細工に見えようが、不幸に見えようが、欲望におぼれたように見えようが、関係ないのだ。わたしの人生はわたしのものなのだから――。澱を抱えた人物たちのどこか吹っ切れたような潔さが見えてきて、痺れる。
だがそれで幸せになれるかは、また別の話。こうなったらいいのに、というハッピーエンドにはしてくれない。キレイゴトが一切ない。そこが本書のおもしろさを形作り、深みを与え、リアルさとなっている。悔恨を抱き、それでも自分で決めた道を受け入れる。それを繰り返すことで、人は逞しくなっていくのだ。
最後には、仄暗さのなかに、やがて焔が浮かぶ。それは人間の業という、とても愛おしい焔。
(みなみさわ・なお 俳優)