インタビュー

2024年3月号掲載

『東京都同情塔』芥川賞受賞記念談話

二人の編集者

九段理江

 本作の舞台は、ザハ・ハディドの国立競技場が完成し、寛容論が浸透したもう一つの日本。犯罪者に快適な生活を保障する刑務所「シンパシータワートーキョー」の設計に携わる牧名は、その空虚な名称を受け入れられず苦悩していた――。
 受賞会見で話題を呼んだ「全体の5%くらい生成AIの文章を使っている」という発言に踏み込む決定的談話。(編集部)

対象書籍名:『東京都同情塔』
対象著者:九段理江
対象書籍ISBN:978-4-10-355511-7

 私が最初にChatGPTに投げかけた質問はこんなものでした。「毎日が退屈です。レジリエンス(回復力)を高めるにはどうすればよいですか?」。前作「しをかくうま」が芥川賞にノミネートされず、鬱っぽくなっていた時期のことです。
 同じ頃、新潮社の編集者に声をかけられ、食事をすることになりました。文学や建築の話で盛り上がり、その編集者が口にした「アンビルト」という概念にも関心を持ちました。それは楽しい、充実した時間でした。
 ところが食事を終え駅に着くや否や、編集者は「原稿、どうかよろしくお願いします。今日はそれだけ言いに来ました」と言い残し、くるりと背を向けて去って行きました。それだけ言いに来ました……では、この楽しい食事の時間は何だったのだろう。この言葉をどのように受け止めれば良いのだろう……。私は再びChatGPTに問いかけました。「『それだけ言いに来ました』この言葉から、どういった印象を受けますか」。すると彼は「熱意や緊迫性を感じます」と。そうか、あの急に表情を変えた編集者には熱意があるのか。では、ぜひ作品を書いてお渡ししたい、と思いました(笑)。それから一晩で構想したのが『東京都同情塔』です。
 私は彼に、三つ目の質問を投げかけました。「刑務所を現代的な価値観でアップデートしたいです。どのような名称が考えられますか」。回答は、「リハビリテーションセンター」「ポジティブリカバリーセンター」「セカンドチャンスセンター」。彼が示す模範回答がカタカナであること、外来語であることに強い違和感を覚えました。生成AIを小説に登場させるのはアリかもしれない、とこの時に思いついたんです。
 AIの回答そのものではなく、回答がカタカナであることに目をつけたのが私らしい、とたびたび指摘されますが、それは確かに、人間的な着眼点かもしれません。回答をメタ的に見た、というところが。
 私は以前から、それまで普通に通用してきた日本語が、発する負担がより少ないだとか、短くて言いやすいだとかいう理由で、外国語に変換され浸透していく現象が気にかかっていました。なぜ、「合意」が「コンセンサス」にすり替わるのでしょうか(笑)。私も「動機」を「モチベーション」、「比喩」を「メタファー」と表現することに、しっくりきているところがあります。だから全てを日本語に戻すという極端なやり方は同意できないけれども、本作の主人公が悩んでいる通り、「ジェンダーレス」という言葉を使って、いったい何が解消されるのか……。特に人の体、アイデンティティ、生き方に関係する言葉には、センシティブにならなければいけないですよね――と言いながら私もやはりカタカナを多用しています。
 なぜなら言葉を発するというのは肉体的な行為で、言葉を制限されることは、行為や心を制限されるのに等しいからです。ただポリティカル・コレクトな言葉を受け入れるのではなく、それを使うことで自分の心が健康でいられるのか、皆さんにも意識してみて頂きたいです。
 新しい言葉や価値観を受け入れたくなくて、立ち止まっている方もいらっしゃるでしょう。そういう方に対して、時代遅れだと非難したり、新しい価値観を受け入れるように強制するのは、間違っていると私は思います。肉体に個人差があるように、発する言葉、つまり心にも、個人差があって当たり前なんです。
 デビューして二年と少し経ち、私自身の言葉も変化してきました。言葉(小説)を発信し、それに対する人々の反応を自分の中で蓄積してきて初めて、「言葉への違和感を扱う」というアイディアが湧きました。だから「ChatGPTを5%使った」という私の発言を受けて、自分もやってみようと思った方が、「ChatGPTを使った小説を書きたいです」とChatGPTに問いかけても、きっと書けないでしょう。最初から小説を書くことをサポートしてもらおうという意識では、うまくいかないんです。
 忙しい編集者との打ち合わせは多くても月一回程度なので、その時間をより実り多いものにするために、事前にAIとやりとりしておくというような使い方は有用でした。今振り返ると、本作において ChatGPTはもう一人の編集者ですね。生身の編集者、AI編集者、そして私の三者で取り組んだという実感があります。
 ただ今のところは、AI編集者より生身の編集者の方が優れていると断言できます。AIはこちらを傷つけたり、想像以上の回答を返したりはしません。たとえ生身の編集者の言葉に傷ついても、悩んだり葛藤したり、ストレスを抱えることが小説を作る上では大切です。それから、目の前の人間との関係性の中で出てくる偶然のアイディアに勝るものは、ありません。だから他者からの言葉は、たとえそれがどんなに的外れであっても重要なんです。私は常に自分の思考の外に出ることを望んでいますし、そうできるように努めています。人類全員がこんなふうに他者との対話を諦めなければ、戦争は起こらないとさえ本気で信じているんですよ。
 生成AIの文体は人間が打ち込んだデータを平均化した、既視感満載の、全く驚きをもたらさないものです。何か一文読めば、その後に続く言葉が容易に想像できてしまいます。本作のマックス・クラインの文章なんか、英語で書かれたライターの文章を翻訳したらこうなる、というような既視感に満ちていますよね。
 この作品で、というかこれまで書いた全ての小説の中で最も作り上げるのが難しかったのは、AIに頼っては愛する人の伝記を書けないと自覚し始めている、自分のオリジナルの、自分の印のついた文章を書こうとしている、拓人の言葉でした。読者が小説に没入するためには、登場人物が一貫性を持っていることが大切ですが、その一貫性を感じさせるには、人物が何を指針にして生きているか、何を大事に思っているかを常に考えながら書く必要があります。それらを念頭に、具体的に彼の言葉を作っていくのが、とにかく難しかった。
 しかも最初に編集者に原稿を渡した時、うまく書けていないことがバレてしまったんですね。私は作品執筆時は、不特定多数の読者でなく原稿を手渡す編集者、ただ一人に向けて書いています。だから、そんなたった一人の人間にバレたことが、彼の求めているレベルに達することができないことが辛くて、適当に書いたんじゃないかと思われているのではないかと、恥ずかしかった。だけどその指摘を受けたからこそ、拓人の文章を完成させることができました。生身の編集者とのやりとりがいかに大切か、お分かりいただけるでしょうか。
 小説を書いている時、私は「検閲者」から自由でいられます。何も気にせずただ小説のことだけを考えて書き、編集者が気に入ってくれれば、これでいいんだと安心できます。本当にNGな言葉は校閲の方々が見てくださると信頼しています。私の小説に関わってくださる方や、それ以外の全ての方々との対話を積み重ねて、自分にも想像のできない作品を、また生み出していくつもりです。

2024.2.9 東京・汐留にて(聞き手:編集部)

(くだん・りえ)

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