書評
2024年4月号掲載
伊良刹那『海を覗く』刊行記念特集
波のように迫る絢爛な言葉たち
伊良刹那『海を覗く』
対象書籍名:『海を覗く』
対象著者:伊良刹那
対象書籍ISBN:978-4-10-355441-7
読み終えて、困惑した。いや、読み進めているうちから、物語を追う頭の横で、何か違和感のようなものを抱き続けていた。こんな感慨を抱く作品は私の読書体験ではあまり無い。
著者の伊良さんは現役高校生で、この春に高校を卒業される。新潮新人賞受賞後のインタビューのタイトルには「Z世代」の文字が目立つ(ゆとり世代と言われた世代の私だが、どうやらまた狭い範囲の世代を象徴する新しい言葉が生まれたらしい)。インタビューには「とにかく三島由紀夫が好きで、あんな美しい文章を書いてみたいと思った」とある。
私も「三島が好き」と馬鹿の一つ覚えよろしく公言し続けてきた甲斐があり、その噂が編集者さんの耳に入り、書評のご依頼を頂いた。『海を覗く』、綺麗なタイトルだ。読み始めようとフッとページをめくり、ハッとした。文学が学問であるなら、その学問に疎い私の率直で陳腐な感想は「すげぇ。三島みたい」だった。
美しいとは何か、綺麗とは何かを「こういうことだ」と言葉で説明し尽くすことは難しい。しかし私は、日常的には使われなくとも、その状況や有り様を端的に表す言葉が組み込まれた文章を美しいと思う。渋谷のセンター街でたむろする若者の9割9分が分からなそうな、作中で用いられる語彙の数々。恍惚、顕現、久遠、瑕瑾、独立不羈。文豪の小説を、特に三島の本を読み始めた自身の青年期、辞書をとっくり返しおっくり返ししながら読み進めた頃を思い出す。
三島の文章は時代の違いもあるかも知れないが、普段使い慣れない、読み方も分からないような言葉がちりばめられていた。それでも読み進めるうちに馴れ始め、気づけば「日本語とはかくも美しいものか」と胸を躍らせた。そして、これ以上の文章表現はないのではないか
と、今でも私の中で至高の作家である。この小説も、そんな絢爛な言葉たちが波のようにこちらに迫り、久方ぶりに足元を濡らされたような印象を覚えた。
この物語に終始通底しているテーマは美である。高校の美術部に所属する主人公は同性の級友の美貌に心を奪われ、美醜や生死や刹那と永劫について考える。そして物語に登場する、数は決して多くない人物達が実に魅力的だ。最初出てきた時は「何だこいつ」と思った美術部の先輩矢谷だったが、物語が進み彼の知行が合一した瞬間に私は快感を覚えた。地震に騒ぐだけで不当にも主人公に白い目で見られる美術部の女の子、山中。思春期の面倒臭さが詰まった矢谷の彼女、七瀬。そして物思う乙女、棚橋の表裏一体の魅力。物語が進むにつれ人物が躍動し、会話の応酬が心地よくなる。ぶつけられる感情、吐き出される言葉に、バットが球を真芯で打ち抜いたような快感を覚える。
ふと、読み続けて覚えていた違和感の一つは、現代に三島文学が甦ったかのような錯覚を私自身が起こしたことによるのだろうと気付く。『豊饒の海』の主人公松枝清顕は、級友の本多と明治末から大正初年の学習院で生きる意味を語り合った。『金閣寺』の主人公溝口は先天性の内飜足を意識的に利用する柏木と、戦後の荒廃甚だしい京都で人の執着について語り合った。今作の主人公は美について内省し、芸術について先輩と語り合い、作者によって「恋に落ちていた」と心情を暴かれる。その文体も構成も三島に非常に似ている印象を受けるが、しかし舞台が私たちの知る高校の美術室や夏の花火大会や修学旅行の奄美大島だから、身体が痒いような心の隅がモニョモニョするような感懐を抱く。
そしてこれは、私自身の問題でもあるのだと思う。三十も半ばを過ぎた壮年の私は、制服を纏った少年の面影を残す高校生たちが芸術家や美について断定的に論じる様を見て「このガキは何を偉そうに」と自身の狭量さを発揮してしまうのだ。それでも、読み進め精密な文章をまざまざと見せつけられ、人物達の心の内の切なる慟哭を感じるにつれ、「年齢など関係ないのだな」と嘆息し、「精一杯生きろ」と祈る。
三島がこの小説を読んだら、何と言うだろう? そんな事を想像しても詮無いが、不機嫌になるか、鼻で笑うか、極東の島国も捨てたもんじゃないと思うか。伊良刹那。あなたのお名前は覚えました。「三島三島」言ってごめんなさい。いつか、精緻でも絢爛でもない、真っ直ぐで考え抜かれた骨太の詩のような、あなたの文章を読んでみたいです。書評ついでに図々しいお願いをしてしまいましたが、お許し下さい。次回作を気長に楽しみにしております。
(ひがしで・まさひろ 俳優)