書評
2024年4月号掲載
終わりなき探究の旅
北村薫『不思議な時計 本の小説』
対象書籍名:『不思議な時計 本の小説』
対象著者:北村薫
対象書籍ISBN:978-4-10-406617-9
世の中に流布する書籍には、要約しやすいものと、要約させまいとする(笑)タイプがある。映画もそうだ。DVDに簡単にストーリーが書いてあり、観たらその通りです! と言いたくなるタイプ。反対に、ストーリーは「女が一人傷心の旅をする」だけれど、出来事以上に風景が全てを物語っている、観た後は風景描写しか覚えていない、要約など全く無意味な映画、である。
実は、本書、北村薫著『不思議な時計 本の小説』を読んで、つくづく思い知らされたのがこの、要約不可能という面白さなのだ。誰か、この本を紹介するのに要約してみて貰いたい。入試問題で本書の要約を出題してもらいたい。見事に出来たら、それは間違いなく合格だ。
しかし、その要約は、本書に限りなく近い字数になるに違いない。
何故か。本書は、謎が謎を呼び、好奇心が好奇心を呼び起こし、いったいこの先には何が待ち受けているのか全くわからない怒濤の展開記録なのだ。スケジュールの決まった旅行ではなく、自由気ままな独り旅。疑問を肩に背負って、明日はどこに居るか自分でも分からない表現にまつわる旅。読み手は、そのスリリングな旅行に付き合って移動するうちに、知ることの快楽、調査の奥深さ、意味のある偶然の摩訶不思議さを知って、表現の本質と面白さを堪能するのである。
もちろん、疑問には、解答がひとつある訳ではない。完璧な正解などあるはずもない。完成のない疑問。正解のない質問。未完ではなく、非完である疑問だからこそ、探索のプロセスが輝きを増すのだ。
そう言えば、三島由紀夫は小説は建築だと言っていた。因果律の設計図をもとにしてストーリーを構築しないと小説は成立しないのだろう。
しかし、本書には設計図はない。まるで、表現の現場報告、表現にまつわる事象の日々の生中継を観ているようなハラハラドキドキの連続だ。
例えば、一番初めの「不思議な島」という章で、著者は、神田神保町の本屋の店先で、「猟奇島」というタイトルのDVDを見かける。そこから、江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』、『現代猟奇尖端図鑑』、佐藤春夫の「探偵小説小論」へと探索旅行が始まって、韓国映画「猟奇的な彼女」、エラリー・クイーン、はたまた、フランク・キャプラの「群衆」にまで飛翔する。こう要約すると、なんのことやら、サッパリ分からないと思う。探索と連想とイメージの連鎖。だから、要約不可能なのだ。
「分からない、は、知りたい、に繋がります。」
と、著者は言う。好奇心があらゆるものを繋げてしまうのだ。繋がりがないと思えていたものが繋がる。散文の繋がりは、意味という接着剤によって繋がり、韻文は音やイメージなど意味を排したもので繋がりを生み出す。本書の繋がりは、なんとこの散文と韻文両方の接着剤が顔を出すからその飛翔ぶりが面白いのだ。
ちなみに、この最初の章「不思議な島」には、ざっと、映画は14本、小説、書籍、雑誌などが、25本ぐらい登場する。全部を読み、全部を観ていれば、本書のジェットコースターのような疾走感が心地良いかも知れない。
もしかすると、本書に出現する作家、作品全てを書き出し、その繋がりの糸を構造分析すると、北村薫という作家の本質にかなり接近出来るのではないだろうか。
私は、登場した小説だけは全て記録した。映画はほとんど観ている。小説はほとんど読んでいない。だから、大量の本のタイトルに目眩がしてしまう。これからの楽しみの宿題が出された感じがする。
実は、告白しなければならない。本書を読んで、本当に目眩が起こり、泣いてしまった。私の母親が前橋文学館に寄贈した時計のエピソードが出てくる章がある。その時計は、宮さん、宮さんという歌で時をしらせるものだ。その一文を読んだとき、自分がそのメロディを口ずさめることに愕然となった。そんな時計など見たことも聞いたこともないのに、口ずさめる。それは、母親が子どもの私に子守り歌のように聴かせていたからに違いないのである。まさか、本書を読んで泣くとは思わなかった。
「同じものも、何歳の時に出会うか、読むか観るかで、全く違って感じられます。年と共に、見えなかったところが見えて来る。意味が分かったりする。」
と、著者は言う。ほんとうにそうだ。本書も、私が若ければ、きっと別の個所で泣いていただろう。本書のどの個所を楽しめるのか。その意味では、何年か経って再読すると、全く別の表情をした本がそこにあるに違いない。
(はぎわら・さくみ 映像作家/前橋文学館館長)