書評

2024年4月号掲載

失敗に至るかもしれない旅を

ふかわりょう『いいひと、辞めました』

羽田圭介

対象書籍名:『いいひと、辞めました』
対象著者:ふかわりょう
対象書籍ISBN:978-4-10-353793-9

 四〇歳になる主人公、平田は、会社勤めの独身男である。周りの人たちから「いいひと」と言われる平田は年を追うごとに家庭をもつことへの憧れを、なんとなく抱くようになる。そうであるにもかかわらず、〈昨今の「マッチング」のように、出会いに第三者の力を借りることは、人として、男として、オスとしての敗北であり、ドーピングである気がして、激しい嫌悪を抱いていた〉とあるように、聞き分けがよく流れに身を任せるタイプでもない。つまりは、自我が、こだわりが強い人でありながら、いいひと、なのだ。平田は結局、物は試しにという気持ちで結婚相談所に通い始める。
 いいひとって惹かれない、いいひとが一番モテない、別に賞賛しているわけじゃない――。行く先々で指摘されるそれらの言葉に、平田はいいひとたる自分の人生がどこか満たされていない理由を見つけたように思い始める。
 近所の喫茶店でアドバイザーのような数人から、いいひとよりサイテー男のほうが魅力を感じるから、まずは形から入ってみればと提案された平田はある日、黒のセットアップに白Tシャツ、素足で革靴にネックレスといった格好で出社する。同僚や後輩たちからは、少し垢抜けた、というように受け入れられる。特段顰蹙を買い、「いいひと」でなくなるわけでもない。しかし平田にとってその“変身”は、グレゴール・ザムザがある朝目覚めると虫になってしまっていたように、彼自身の日常を確実に変えてしまったわけである。〈ランチタイムのオープンテラスでフォアグラとシャンパンを口にしている自分の体が、自分ではなく、誰かに操縦されているような気がした〉と感じているように、形を変えるだけで簡単に、中身はそれっぽく変わってしまう。果たして、自由意思とはなんなのか? コンビニのレジで募金をしなくなったり、電車では必要以上に股を広げたりと、ショボいながらも確実に、能動的に、平田は「いいひと」から離れてゆく。
 女性たち相手にサイテー男として振る舞ったりする様は、競技で高得点を狙う者のようなストイックさすら感じられ、むしろそれは彼にとっての楽な生き方、欲望ですらないようにうつる。「いいひと」の呪縛から離れ自由になったつもりが、また別のなにかに縛られているかのように。
〈私は、着実にサイテー男への階段を昇っていた。結婚のことなどどうでもよくなり、男として、人間として、サイテーを極めたくなっていた〉
 なんとなく結婚したいから、という当初の目的から逸脱し、一人の人間をそうさせてしまうほどの行動理由や衝動は、何なのか。
 いいひとは、〈世間体を気にしたりとか、よく思われようとする〉。人は誰しも、世間体を気にせず、自由に生きたいのではないか。幸いにも社会の中で人権を侵害されてはおらずとも、世間の目の中で日々、小さく自由を奪われていると感じている人は、多いのではないか。そう捉えると、自由を獲得しようとする主人公の物語として、とても王道的な話として理解できる。
 物語の終盤において、直接的な因果関係はないものの、平田は報いを受けることとなる。あるいはそれは報いではなく、彼を目覚めさせるための、犠牲をともなった救済なのかもしれない。
 本書評を書いている私も含め多くの人々は、どうして自分は不自由で、やりたいこともできないのだ、と現状に、そして踏み出そうとしない自分に不満を抱いたりする。もちろん、踏み出す勇気が足りていないこともある。一方でそれ以上の大きな理由があるのではないかと、本作を読んでいて感じた。
 今の自分ではない、あちら側にいる憧れの自分。それがそもそも、本当になりたい自分像ではないのではないか。
 ロケット打ち上げの記事を読むと、枯れた古い技術でも、それが何度もうまくいっているのなら、変えないほうが失敗する確率は低い、というような記述によくいきあたる。それが最近、ふとした折に頭をよぎる。
 自分にとっては、代わり映えのない平凡な日常。それは強く望んで、そうなっているのかもしれない。平田の序盤を思いだしてほしい。彼はこだわりの強い、いいひとであった。つまりは自ら強く望み、半生をいいひととして歩んできたのだ。しかし人は時に、道に迷う。ロケットの新技術のように、失敗の危険性をはらんでいたとしても、今までと違うやり方に挑む必要があるのかもしれない。あるべき場所に戻ってくるためにも、大いなる旅をしなければならない時期というものが、人生の中で一度くらい、訪れるのだろう。

(はだ・けいすけ 作家)

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