対談・鼎談

2024年4月号掲載

『精神の考古学』刊行記念対談

四〇年という時間を経て、今伝えるべきこと

細野晴臣 × 中沢新一

1983年、YMOの散開コンサートの楽屋で出会って以来の付き合いだというふたり。中沢新一が「書くまでに四〇年かかった」という、『精神の考古学』の刊行をきっかけとして、共有してきた風景を語る。

対象書籍名:『精神の考古学』
対象著者:中沢新一
対象書籍ISBN:978-4-10-365903-7

細野 長い付き合いになっているよね。

中沢 そう、初めて細野さんに会った頃の僕、チベット臭プンプンだったでしょ? 日本に全然ハマってなかったし。

細野 そうだね(笑)。学生っぽかったよ。突然現れて不思議だった。

中沢 解散コンサートでしたよね。

細野 そう。そこに来てくれて。

中沢 細野さんたちが向こうの楽屋の方から出てきてね。そのときね、光がブワーッと出て、輝いていた。

細野 うそ。

中沢 その中の黒いのがこっちに……

細野 僕は「黒い」の?(笑)

中沢 ほら、影の存在だから。

細野 あ、そうか。

中沢 それ以来けっこうずっと付き合ってきたね。

細野 そうそう。歳は僕がちょっと上だな。

中沢 だね。一緒に旅行もね、何回もしているし。

細野 仲良しだね。

中沢 仲良しですよ(笑)。この本で書いたチベットの密教修行前から細野さんの音楽が好きでね。

細野 そこら辺のこと、全然聞いてないよ、僕。

中沢 あ、ほんと? 細野さんの音楽については、その前のアルバム「はっぴいえんど」(1970年)や「トロピカル・ダンディー」(1975年)、あの辺りのレコードを聴いてから行ったんです。「はらいそ」(細野晴臣&イエロー・マジック・バンドのアルバム、1978年)なんかもとっても好きでね。

細野 そうだったんだ。

中沢 うん。で、同時にその頃、ブライアン・イーノが、「ロキシー」(イーノが参加していた1971年デビューのバンド)をやりつつ、「Ambient 1:Music for Airports」(1978年)というアルバムを出した。日本も海外も「音楽が変わり始めてるな」っていう意識があって。福生の米軍キャンプで出てきた音楽と、まさに細野さんが走り出してきたところとでは、随分違ってきていたから。

細野 変わってきていたね。となると、YMO(1978年デビュー)の前に、チベットに目を向け始めたんだね。

「お前、YMOを知らないの?」

中沢 なにしろね、チベットの修行に入ると、「音楽なんて聴くな」って言われるんですよ。

細野 そりゃそうだよね。

中沢 「本を読むな」も。

細野 あ、本もダメね。

中沢 「踊りやるな」とかね。向こうにいる間は、僕も音楽をあんまり意識しないでいたのだけど、やっぱりほら、インド・ネパールの世界は音楽の世界なんです。どんなレストランでも、あの「アヒャー」っていうのがガンガン聞こえてくる(笑)。途中でダージリンっていう、ブータンやチベットに連なる北東インドの町へ行ったんだよね。

細野 ダージリンは紅茶で有名な、山間の高級な避暑地だよね。
 もう、フラッと行った感じ?

中沢 決意は固めて学びに行ったのだけど、観光ビザしかなくて「三か月おきに国外に出なさい」っていう状況で。

細野 あ、そう(笑)。一歩でも出ればいい?(笑)

中沢 一歩でもインドの土地を踏めば、もう戻ってきていい(笑)。ネパールに亡命したチベット僧に教わっている間、何度も国外へ出る度にインド内を旅して回ってね。で、ダージリンへ行ったら、イギリス風の建物がずっと立ち並んでいて、インド人は三つ揃いのスーツを着ているわけ。

細野 ほんと? 意外だな。インドといっても違うね。

中沢 そこでですよ。お酒も飲ますような、まあ、当時のカフェバーに入って本を読んでいたら、「チャーンチャーンチャ、チャンチャンチャーン♪」っていうのがかかった。

細野 聞き覚えのあるメロディーだな、ほんと?(笑)

中沢 「あれ、これ、なんなの? けっこういい曲じゃん」って思ったわけ。とても新鮮ないい音だし、この曲想は絶対アジア人だと思った。そういうお店にはけっこうほら、音楽ファンの意識の高いインド人が多いから「あれなんの曲なの?」って聞いたら、「何言ってんの、バカ」「お前、知らないわけ?」と言われてね。「え、知らない」って返したら、「日本人でしょ、あなた」って。「これ日本の曲だよ」「Y、M、O!」「今すごいんだよ」って。

細野 またすごいとこで聞いたねえ。

中沢 カセット一本に何曲も入っていてね。それで、あっれー、ってラベルを見たら「YMO」で、「Haruomi Hosono」と書いてあるからさ、驚いた(笑)。ここで細野晴臣もないでしょうと思ったけれど、「まあ、でも考えてみろよ、インドにあんなにハマってた人じゃないか」って。

細野 まあね。横尾忠則さんと旅をしてたしね(1978年)。

中沢 おもしろいもので、カトマンズに戻ってお寺で話を聞いてたら……

細野 はいはい。

中沢 「ブライアン・イーノっていう人が来たよ」「録音機持って来たよ」って言う。

細野 へぇ~、あ、そう。録音というのは、土地の音の収集だよね、フィールドワークをしていたのかな。

中沢 細野さんとイーノがそこで繋がってきたんですよ。

細野 なるほど。ああ~、すごい場所でそうなると、繋がるきっかけになるね。それは知らなかった。

中沢 頭の中にその日の風景と二人の名前が強く残っています。

細野 香りにすごい惹かれていたな。

中沢 香りに? 細野さんはイーノに実際にお会いしたんですよね。

細野 うん。奈良の天河神社でお祭りがあった時、イーノも呼ばれていてそこで会ったの(細野は何度も訪れ、演奏を重ねている)。僕はその当時好きだったパチョーリ(苔のような香り)をつけていたのね。ヒッピーがよく使ってたやつ。その香りを、イーノは向こう二〇メートル先から言い当てるわけ。で、座って話し出したら、自分は今音楽に飽きたんだ、なんて言ってくる(笑)。香りに熱中していて、フランスの調香師と組んで香りをつくろうとしているって言っていたけどね。多分、香りにもすぐ飽きちゃったんだろうね、その後何も出ていないから(笑)。
 でもそのときの話はおもしろかったね。調香師と一緒にパリに行って、公衆トイレの男性の便器に脱脂綿みたいなのを置いといて、それを持って帰るって(笑)。

中沢 えー。

細野 研究なんだよね(笑)。フェロモンなのかよくわかんないけど、そんなことまでやっているんだと驚いた。あと、パリの調香師はタバコを吸うんだって。タバコは嗅覚を鋭くするから(笑)。それで僕はタバコを止めらんなくなっちゃった(笑)。

中沢 イーノが悪いね(笑)。

細野 はは、イーノのせいだよ(笑)。

ブライアン・イーノの作品を装画に

細野 今回の本の装画をイーノに頼んだのはどういうことだったの?

中沢 一昨年に京都でイーノ展をやってたんだ(「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」、2022年)。そこで、この「ライト・ボックス」の作品を観た。

細野 ああ、観たんだね、この装画になったシリーズだね。

中沢 『精神の考古学』で、修行の過程の一つとして、「暗闇瞑想」について書いたのね。真の暗闇にした専用の小屋で一定期間過ごすことで自分の内から現れるものを待つ。こう、光が現れてくるときに自分の色が出てくるのだけど、まさにそれだと思った。このオレンジは、僕の魂の色なんですよ。

細野 その色は人によって違うわけね。

中沢 この色を使いたい、とたまらなくなって、出版社経由で頼んだわけ。

細野 いいよね、これ。どうだったの、イーノは?

中沢 本人がしっかりと確認してくれたみたい。本のあとがきに書いたのだけど、気になってイーノの発言をたくさん読んでいたのね。「WIRED」っていう雑誌でイーノのロングインタビューがあって、もうだいぶ前なんだけど、イーノが「アフリカが足りない」って言っていた。

細野 へぇ~。

中沢 音楽に足りないという意味に読めて、捉え方によっては、コンピュータに足りないとも読める。確認したら後者で、「コンピュータにアフリカが足りない」だったけどね。

細野 なるほど。おもしろい発想だな。

中沢 だよね。「アフリカが足りない」っていう言い方にある何かに、僕はビーンと来た。この本に通じていてね。

細野 なるほどね。わかるよ。

中沢 発明家で、同時に技術者でもあり、詩を創作している彼の感覚には共通するものを感じる。全体に細野さんとも似てると思う。宗教は嫌いだけど、霊的なことに強い関心があるしね。

細野 そうそう、突端的な人だしね。

中沢 先端を走る人だよね。ただ、この装画で装幀を作るのは思ったよりも難しくて、もう四苦八苦でようやく作り上げましたけどね。

細野 イーノのこの作品を選んだことで、新鮮な仕上がりになったね。

中沢 装幀で言えば、『チベットのモーツァルト』(せりか書房、1983年。その後、講談社学術文庫)を書いた時に、「BGM」(YMOのアルバム、1981年)のジャケットをデザインした奥村靫正さんに、本の装幀を頼んだんです。「こんな感じで作ってほしい」と「BGM」の現物を持って行って(笑)。「BGM」は音楽がね、もう素晴らしい。

細野 ジャケットもよかったしね。

中沢 YMOの、最高の作品じゃないかと僕は思ってる。

細野 ああ~。おんなじ意見だ、僕と。

中沢 本の内容は「BGM」とは全くタイプが違うんだけど、風景が繋がるんですよ。

細野 本のタイトルも斬新だね。

二人で聖地巡りをした1980年代

中沢 それからしばらくして、YMO解散が決まった時に、一度細野さんっていう人に会っておこうと紹介してもらった。会っておかないといけないなという気持ちになって。

細野 ああ、それで、突然来たんだ。フラッと現れたからよくわかってなかった(笑)。

中沢 当惑してましたもんね。ぼ~っとしてるのはコンサートの後だからかなと思ってたけど(笑)。

細野 まあ、その時もだけど、ずっとぼ~っと生きてたんだよ(笑)。

中沢 その後、細野さんと対談しませんかっていう話が出てね。で、細野さんと話してたら、「旅行したい」と。すごく旅行したい気分だったんだね。

細野 その頃はそうだったんだ。

中沢 盛り上がった理由のひとつには、「日本のニューエイジ」というのか、細野さんはほら、イーノとも出会った天河へしょっちゅう出かけて、聖地に興味があって。

細野 そうそう。その頃はそうだった。

中沢 僕も日本の聖地を無性に歩きたかったんですね。だから、あ、これはいいやと一緒に歩くことにした。

細野 あれ以来そういうことやってないから、やっといてよかった。

中沢 もう、遮二無二歩いたね。理由のもう一つは、細野さんが、精神世界に深く入り始めていたからですよね。学生運動が盛んで右か左かっていう政治の時代に、細野さんはほら、左翼の洗礼を全然受けてなかった。別次元で楽しそうだった。

細野 楽しくやってたよ(笑)。音楽しか、考えてなかった。あなたは、家系なのかな、政治を考えるよね。

中沢 家系もあるし、左翼を知らないわけじゃない。

細野 全然それは僕と違うよ。

中沢 ただ、僕の心の中には細野さんと全く同じものが、強烈にあるわけ。それは、日本の精神性なんていうものに対する関心、それからアジア的なるものに対する関心だね。霊的なものや精神的な世界に対する興味もすごく強い。と同時にマルクスも読む。

細野 同時にあるんだよね。正しいよ。

中沢 その頃細野さんがやろうとしてた音楽にも、僕は関心があったし、そもそも、細野さんの音楽性がものすごいスピードで変化しつつありましたね。

細野 何やってたっけ? 天河に行って水の音を録ったり、「マーキュリック・ダンス」(天川村を舞台にした、同名映像作品のサウンドトラック。1985年)をつくったりかな。

中沢 あの頃はイーノの影響を受けていたわけですか。

細野 影響されたよ。あの「アンビエント」(イーノの提唱した、環境としての音楽)という考え方が自分にはそれまでなかったから。イーノの発明っていうことだよ。

中沢 発明でしょうね、あれはね。

細野 二人で始めた旅は、本にもなった。『観光 日本霊地巡礼』(角川書店、1985年。その後、ちくま文庫)。

中沢 そして、一緒に聖地観光をやると、変なことが起こるんだな、これが。

細野 へへ(笑)。

中沢 で、またそういうのをおもしろくするのが好きだから、こう、変な話を僕がでっち上げると、細野さんが乗ってくれてね(笑)。

細野 ははは(笑)、そうだっけね。

中沢 うん。旅自体がものすごく、軽~い感じで。でもあの軽さは、いわゆるあの当時言われた軽薄短小とは違う。

細野 違う軽さ、観光気分。物見遊山って言ってたし。「軽い」っていう言葉って裏腹で「軽快」「軽やか」っていうことだからね。

中沢 伊勢の回なんて楽しかったね~。

細野 今の若者がやっぱりそういうことをやってる。パワースポット巡りっていうのか、僕たちが原点なのかも。

中沢 先駆けでしょうね。

細野 変な人たちにたくさん会ったし。

中沢 ね。

細野 今、みんないなくなっちゃったんだよ。あの頃の天河という神社は、人が集まるから「精神界の六本木」だって本当にそう思った。霊能者のおばちゃんたちみんなが、車座になって天狗の自慢話をしたりね。ちょっと通りかかったら、「あんたもここに入んなさい」となって、「あんたの目は人間じゃない」なんて言われてね(笑)。巻き込まれそうになって逃げてきたけど。

中沢 僕はほら、人類学やってたから、霊能のおばちゃんとかいうのにはもう慣れっこなんですよね。

細野 だよなぁ。

中沢 で、むしろそっちの話の方が大好きだしさ。

細野 おもしろいもんね。

UFOと縄文の意味とは

中沢 僕は元々、全然違和感なくそっちの世界だったから、僕にはむしろ、細野さんがそういう世界に深く入り込んでいるのが発見だった。

細野 いや、あの頃が初めての体験だよ。その頃から周りに、いわゆる霊能者みたいなタイプの人がいっぱい出てきたんだけど、なんでだろう。

中沢 UFOだって、日本中にやけにいっぱい出てきたじゃないですか。

細野 そう。ユリ・ゲラーが来て(超能力者を名乗るイスラエル人。1974年以来、何度か訪日)スプーン曲げを流行らせてね。その頃からUFOブームになった。で、今では考えられないんだけど、集団で山まで見に行ったりね。実際それで、見えるんだよ。

中沢 細野さんから「今、ラフォーレの最上階にいるんだけど、UFOが出たんだよ」って電話もらったこともあったな。

細野 あ、そうだった?(笑)

中沢 なんで1980年代のあの頃って、あんなにUFOが出たんですかね。

細野 出たねぇ~。なんでだかわかんないけど、ピークがあったな。

中沢 ユングの本には「集合的無意識だ」って書いてある。人間がその集合的無意識で外部に投影しているものがUFOなら、あの当時の日本人の心性に、そういった集団的、集合的無意識の作動があるんだろうとは思う。

細野 うん、それはある。すべてを解き明かすことはできないけど、あんなにUFOっていうのを期待して招いたから、現実化しちゃったんだね。

中沢 思えば、YMO自体が、そういう集合的無意識の一つの波頭みたいなもんだったじゃないですか。

細野 はい。まあ芸術なんてみんなそうだろうけど。

中沢 その思想や哲学、当時ブームになったことも、どれも1980年代当時の日本人の集合的無意識が招いていたものなんだろうね。

細野 そうだと思う。奥深くて見えないし論理化はできないけど、今は同じことを三〇代の人たちがしていて、熱気を帯びて復活してる感じがする。縄文ブームがそうでしょう。

中沢 ちょっと僕らにも責任がある気がする(笑)。

細野 そうだよ。根っこを耕した気はする(笑)。

中沢 ただ、その縄文の話なんてのも、この本の中で「アフリカ的段階」って言ってるんだけど関係してるんですよね。日本的に言えば「縄文」ですね。

細野 そうだね。

中沢 細野さんは霊能者やシャーマン、縄文について感覚から入っていく人だよね。一方で僕は、外面は研究者のふりをしてたんですけどね。

細野 ふりだよね、知ってるよ(笑)、内面は僕と同じだから。縄文的な、本能でちゃんと生きている人だなと思う。

中沢 細野さんも縄文的な感覚が生きている人ですよね。

細野 うん、そうね。僕は研究はしないんだ、全然(笑)。

中沢 僕はまた、一方で研究しちゃうんだな、好きで。

細野 両刀使いだ(笑)。まあ、だからこそ、吉本隆明さんのような人にすごく興味を持たれたんだと思います。この本のタイトル『精神の考古学』も、吉本さんの言葉からですよね。

中沢 そうです。「精神(心)の考古学」の専門家たちの方法として、「未開の宗教、医術、知識、経験などを継承し、それに通暁しているか、それらの技術を保存している固有社会の導師に弟子入りしてその技法を体得し、その核心を現代的に解明すること」だと、帰国してまとめた『チベットのモーツァルト』の文庫の解説で吉本さんは書いてくれた。僕がチベット僧の元で密教の修行をしたことについて、「初めての試みなんじゃないか」って吉本さんは前向きにおっしゃってくれてね。

細野 今絶対ここにいてほしい人の一人ですね。

中沢 そうなんですよ。今だったら吉本さんと、もっとこの本のテーマについて、しゃべることができるはずでね。

細野 そうでしょうね。吉本さんのような人が今、見当たらない。

中沢 僕らが一番上の世代になったっていうのは問題だよね。

細野 ほんと(笑)、弱ったね。

中沢 でも、最初に会ったときは、吉本さんは親鸞に夢中だったからあまり興味を持たれなかったかな。

細野 ああ、そうなのか。

中沢 「修行なんかするやつはダメだ」っていう前提なんですよね。だから全然、話合わなくて。

細野 だからこそ、吉本さんはその後に『チベットのモーツァルト』を読み直したんだ。それからだね。

中沢 最初読んだときは「変なやつだ」と思ったらしい。でも、「僕がやろうとしていることは、吉本さんがやろうとしていることと同じなんですよ」って言いたかったけどね。

細野 あ、まだ言ってない?

中沢 言ってなかった。感じてくれてはいたでしょうけどね。そういう話をしちゃいけないと思っていたけど、吉本さんは、実はそういう話に関心がありましたね。

細野 人間は突き詰めていくと、感じたかどうかに行くんじゃないかな。

中沢 予知能力や気配、そういうものが人間の心の作用の中でどういう位置にあるのか。「人間」、吉本さんがいうところの「大衆」ですね、普通の人たちが世界を感知するやり方は、心の作用からだという前提に立って、吉本さんは思想をつくってますからね。

細野 そうか。

執筆までに四〇年かかった理由

中沢 で、そこを前面に押し出したら、『精神の考古学』になっちゃったっていうことではあるんです。だから、その修行から、四〇年もの間なぜ書かなかったのかというと……

細野 そう、そこなんだよ。それを聞きたいんですよ。

中沢 書こうと思ったことは何度もあるんですよ。

細野 そうなんですか?

中沢 うん。ただ、「まだだなぁ」という意識がずっとあった。それからもう一つは、オウムですよ。

細野 うーん、確かにそれがあった。

中沢 それで書けなくなっちゃった。それなら、冷凍保存しとこうと思って。

細野 それはよくわかる。で、やっと解凍できたんだ。

中沢 そう。安易にやると誤解されるに決まっているし、残念だけど、日本人には宗教性というものを理解すること自体がまだ無理なのかもしれないと思ったんだよね。

細野 なるほど。

中沢 今こそやるべき時期だと思ったのは、さっき細野さんが「三〇代の人が縄文を求め始めている」と言ったのと同じこと。そういう若い人に向けてきちんと、精神(心)についての僕の考察を伝えるべきだと思ったから。

細野 他にそれができる人はいないよ。それはほんとにそう思う。

中沢 これさ僕がちゃんと書いて残さなかったら、僕にチベット人が伝えようとしたものは、永久に僕の中で終わっちゃうんですよね。これはいけないなと思ったわけです。

細野 そりゃそうだ、大事なことがこの本には書かれている。

中沢 でも、宗教の形でそれを伝えていくのは嫌なんです、僕は宗教っていうのは好きじゃないから。

細野 ああ(笑)。

中沢 教団とか共同体とか、僕は権威主義的になるのは絶対ダメなんですよ。

細野 うーん、わかる。

中沢 権威のもとで伝えられる言葉は、どんなに深い、正しい言葉であったとしても、人間を正しい方向に導くことはない、と思っているから。

細野 そう、僕も同感だな。対談する前にさっき考えてたんだ。日本の宗教は底が浅くなっているようにも思う。

中沢 浅いよね。自分の体験からもそう思う。最初にインドに行ったときに、カルカッタでカーリー女神のお祭りに出くわしたら、熱狂した群衆がこっちに走ってきた。何かと思えば、「バクティ」だという。バクティとは、献身的な信仰、熱烈な信仰の意味で、もう、ワーッと起こる、狂気なんですよ。

細野 そうだろうね、人が亡くなるぐらいだから。

中沢 宗教というものは、根っこのとこではこの狂気まで至るもんだろうと思うし、このことは吉本さんとよく話してきました。だからこそ、古代の体系であるゾクチェンという教えに身を投じて「精神の考古学」という技術で現代的に心を解明するしか、宗教を伝えることは本当にはできないと思った。
 宗教っていうのは、とにかく普通の人間が考えているレベルで収まらない人間性の内部が外に出てくることでね。それを、法律であるとかジャーナリズムの言葉であるとか、まあ哲学の言葉もそうですが、そんなんで押さえこもうとしたって捕まえられるもんじゃない。それが日本の知識人にはわかってないっていうのが吉本さんの考えで。それを力説してくれていたんです。僕も全く同感で、日本の宗教理解はまだまだ底が浅いと思います。

細野 なるほどね。

中沢 本来は深いんですよ。それはもう人間性の奥底ぐらい、深いもんです。

細野 管理なんてできないものだよね。

中沢 その管理できないものを管理するために、人間はね、必死になって宗教組織をつくったんだと思うんです。

細野 特に今の時代って、世界が管理される方向に行くような懸念をみんな持ってるわけでしょう。
 でもさっき言った集合的無意識の世界では違うことが起こっているよね。

中沢 起こっちゃってるんですよ。

細野 それに僕は大きな希望を持ってるんだけどね。

中沢 あ、僕もそう。

細野 おんなじだ。

中沢 二〇代、三〇代の人たちの感覚や思考が変わってきてるっていうのを強烈に感じる。例えば、その世代の人は比較的お金を使わないでしょう。それがもっと徹底して生活の中で展開していけば、資本主義が変わることになる。だって、買わないんだもん。お金を使わなければ生産性は縮小していくんだから変わらざるをえない。

細野 そうだね(笑)。今まさにその景観が見えてきているわけだよね。

中沢 低成長の時代に生きる人間が考えていかなくてはいけないベースを提示しておければとも思って、僕はこれを書いたんです。

細野 絶好のチャンス、いい時代にこの本は出たね。素晴らしい。僕もこういうアルバムをこれから作りたい(笑)。

中沢 それで、今の二〇代、三〇代の人たちに僕らの時代に見ることができた精神の深層を伝承して刷り込みたい。

細野 世代論っていうのがあったな。

中沢 今は、アニメなんかで曖昧にポワーンとした感じでこの感覚を享受してるけど、もっと明確に思想まで持っていくことはできるよと伝えたい。

細野 今はアニメばかりだもんな。

中沢 だよね。それをどうにかする時代に今、差し掛かってると思う。

細野 まずは言葉にしたんだ。これは、大事な一冊になるね。いやほんとに、世界的に大事な本だよ。タイトルがフランス語でも書かれている。

中沢 奥義書なんです。思想って奥義なんです。

細野 奥義が書かれてるの?

中沢 書いてあります。チベット人の恩師が教えてくれた奥義がそのままに。

細野 ゾクチェンだよね。 初めて読ませてもらう内容だよね。

中沢 亡命したチベット人も多いから、欧米人も早くからこのゾクチェンを知っていたのね。でも、欧米文化を通してのチベットは本来のものとは違う。

細野 アメリカナイズされちゃう。

中沢 そうすると、奥義が失われてくる。寿司の「カリフォルニア巻き」みたいになってね。

細野 はは(笑)、なるほど、ああいうものなんだ。

中沢 あるべきなのは「アジア人がアジア人から学ぶ」というやつです。

細野 それは初めてだ。

中沢 だから、YMOのコンセプトには深く感銘を受けたわけですよ。「アジア人の中から出てくる世界的なもの」という枠組みでね。

細野 そうか。僕はもう七〇代半ば、これから一生かかって読んでいく本になる可能性があるね。カスタネダの本は僕の人生に影響して、一生モノなんだけど、そういう本ってあるね。

中沢 うん、あるね。

細野 まあ、ユングやレヴィ=ストロースもまだまだ読めていなくて、これから「読む」つもり。これが僕の「これからの人生の一冊」になります。

変わらない二人、変わっていく風景

中沢 若手のミュージシャンで、細野フォロワー、影響受けてきたっていう人がまた増えているよね。

細野 長く生きてるとそういうことも起こるよ。

中沢 体験を伝えようとか思う?

細野 あんまり考えてないなぁ。曲を作って、それを聞いた人がそれを受けて何かやってくれればいいと思ってる。

中沢 今後はどんなものを?

細野 この本のようなアルバムを作りたい。

中沢 わお! 二度目だよ、ホント!?

細野 そこまではできないか(笑)。もうちょっとこう、ポップなことかもしれない。でも、ずーっと考えていてね。僕にはよりどころがないし、経験がないんでね。何ができるかっていったら音楽しかできないなって、今さら、自分でも思うようになってきてね。
 安田成美さんが四〇年ぶりに歌った「風の谷のナウシカ」の曲は、成美さんのリクエストだったのね。最初にやりたいって手紙が来て、成美さんのために、と思ってつくってた。でも1980年代のあのナウシカは、あの時代の商業主義の中から出てきたポップソングで、今と全然違う。今なら、どうやったらいいんだろうというところから始めたんです。まあ、聴いてもらえばわかるけど、全然派手じゃないものができた。
 聴いた人は癒されるみたいだね。僕は作っている間はハイになってた。いつもの十倍ぐらいかな(笑)。二か月間、毎日やっては変え、やっては変え、で自分でもあきれてね。狂っているなと思って。漆職人みたいでさ。

中沢 細野さんは職人みたいなとこがあるよね。

細野 出来上がって、これ以上変えるところはないから、それが今発売されているんですけどね。

中沢 これから作るソロは?

細野 ソロは、またそれとは違う。曲を、今度送るね。

中沢 うん、聴きたい。僕も、細野さんとお会いすると、自分の中にある、音楽的欲動みたいなものが動き出す。

細野 お互いあるよね。踊りだす面白さがね。

中沢 細野さんとこうやって話すのは、嬉しくて楽しくて、しょうがない。

細野 それも含めて、僕たちって全然変わらないねえ。

中沢 うん。変わんないよね。

細野 全然変わんない。なんか、初めて会ったときもこんな感じだった。

中沢 成長しないんですよ。

細野 おんなじだ。成長しない。

中沢 変で滑稽なものが好きだしね。

細野 そう。

中沢 おちゃらけるのも好きっていうのは、僕と細野さんが気が合うところ。

細野 中沢さん、ずーっと、会ってから今まで、この本が出る今の今までおちゃらけてるもん。

中沢 僕と細野さんは常におちゃらけながらも、お互いに観察し合ってるんですよね。

細野 そう、冷静な目で観察だね(笑)。

中沢 僕は、ギュンター・グラスの小説『ブリキの太鼓』を読んだとき感動したんですよ。成長しないと決めた少年の話だね。

細野 はい。「成長しない」のがおんなじだ。あの映画も大好きです。

中沢 僕は、この少年は自分だと思ったんだ。物語の中で、すぐにおばあちゃんのスカートの中に入るでしょう?

細野 うん、入る入る。

中沢 あれもおんなじなんですよ、僕。

細野 え? あんなことやってたの?

中沢 あのね、文久三年生まれのひいおばあちゃんっていうのがいて。

細野 「文久」っていつだ(笑)。

中沢 このおばあちゃんが、すっごく変わった人で、おしものことを話すのが大好きな人で、いつもちいちゃい僕をね、腰巻にくるっと挟み込むのよ。

細野 どんな気持ち?

中沢 おばあさん特有のおしっこの臭いがね、モワ~ンとあたたかい感じ……これがね、いいんですよ。で、僕がジィッとそこで縮こまっているとおばあちゃんが「ウフフ」とか言ってね。

細野 それはすごいな。

中沢 そんな体験をする人ってあんまりいないんだろうなって思ってたら、ギュンター・グラスが書いていた。

細野 そうか。なんかいい話だ。

中沢 少年の決意も、自分と全く同じだなと思って。

細野 オスカル少年か、なるほどね。

中沢 で、細野さんに会ったときね、細野さんも『ブリキの太鼓』だなって思ったの(笑)。

細野 そうなんだよ、なんかね、結局は坊やなんだよ。

中沢 坊やだよね、そう(笑)。

細野 坊や心がずっと消えないんだな。

中沢 で、あんまり成長しない。

細野 しないんだよね。バカだね。

中沢 なんでまたおんなじバカなことを、って思いながら。

細野 だからバカなんだと思うよ(笑)。

(ほその・はるおみ 音楽家)
(なかざわ・しんいち 人類学者)

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