書評

2024年5月号掲載

映画の作り手たちを刺戟した実践的な名著

小林信彦『決定版 世界の喜劇人』

高崎俊夫

対象書籍名:『決定版 世界の喜劇人』
対象著者:小林信彦
対象書籍ISBN:978-4-10-331829-3

 小林信彦さんには数多の喜劇人をめぐる著作があるが、その中でもっとも息の長さを誇る代表作といえば、今回、復刊された『決定版 世界の喜劇人』にしくはない。本書の原型となった『喜劇の王様たち』(校倉書房)が刊行されたのは1963年、なんと六〇年以上も前のことである。その後『笑殺の美学』(大光社・1971年)、『世界の喜劇人』(晶文社・1973年)、そして新潮文庫版(1983年)と版元を替えながら、幾度もよみがえってきた掛け値なしの名著である。
 本書は、1961年、佐藤忠男が編集長として辣腕を振るっていた時代の「映画評論」に連載された評論「喜劇映画の衰退」がベースになっているが、この連載に逸早く反応し、驚愕した同世代の映画作家がいた。当時、“松竹ヌーヴェル・ヴァーグ”の旗手と呼ばれた大島渚である。後に「「衰退」というタイトル」と題されたエッセイ(『わが封殺せしリリシズム』大島渚著・中公文庫所収)で大島監督は次のように書いている。
「……しかし二回、三回と読み進んでゆくうちに、この論文がおそるべき力を備えていることはすぐわかった。たわいない思いつきと甘ったれた願望だけをぬたくった評論が横行しているなかで、これは怖るべき博識に裏付けられた細緻な実証と、その上に組み立てられた強固な論理と過激な意見を併せ持った大論文だったのである」
 大島監督は「喜劇映画について長い評論を書ける男なら、監督もできる」というのが持論で、本書の巻末の著者インタビューでも、大島氏が小林氏に映画を撮ることを進言し、結局、「チンコロ姐ちゃん」のシナリオを手伝う羽目になる顛末がユーモラスに語られている。
 さらに「ぽんこつ」「乾杯!ごきげん野郎」などの秀逸な喜劇で知られる名匠瀬川昌治監督が『喜劇の王様たち』を何冊か購入し、参考書として助監督に読ませたというエピソードを私は監督本人から伺ったことがある。このように『喜劇の王様たち』という幻の処女作は、なによりも映画の作り手たちを刺戟する、きわめて実践的な書物であったことを忘れてはならない。
 周知のように、本書のオリジナルな魅力は、ヒューマニズムとペーソスで聖人化されていたチャーリー・チャップリンを〈異端者チャーリー〉と断じる一方で、当時、不当に忘れられていたマルクス兄弟のアナーキーでグロテスクな狂気とナンセンスな笑いを熱烈に再評価したことである。
 とりわけ注目したいのは、小林氏が、サイレント期に頂点を迎えたスラップスティック・コメディの本質を絶妙な才筆で綴ったジェームズ・エイジーの記念碑的なエッセイ「喜劇華やかなりし頃」を引き継ぐように、トーキー以後の喜劇の衰退の歴史を、ギャグを中心にして辿るというユニークな方法を採ったことである。この小林氏独特の語り口については、渡辺武信が『笑殺の美学』所収の深い洞察に満ちた名解説「ギャグの総和を超えるもの」で次のように分析している。
「そもそも、この論文における中原弓彦(注・小林信彦)の語り口じたいが、人をくやしがらせるような構造を備えているのだ。彼はギャグを客観的に、言わば無味乾燥に叙述することを避けて、あくまでそのギャグに接した時の自分の感覚に忠実に書き綴っていくという方法をとったのだが、それはギャグの描写に生き生きとした背景を与えると同時に、そのギャグを見ていない読者に対して“見た者の優位”を避けがたく誇示するような効果を生んだのだ」
 ちなみに私の最初の小林信彦体験も『笑殺の美学』であり、同時期に出た『笑う男 道化の現代史』(晶文社・1971年)と併読しつつ、当時、高校二年生だった私は熱烈な小林信彦ファンとなってしまったのである。
 今回の決定版には幾つかの忘れがたいエッセイが増補されている。たとえば「〈ロマンティック・コメディ〉の出発」は『笑う男 道化の現代史』に入っていた「アメリカ的喜劇の構造 ――非常識な状況の笑い」の加筆・再録だが、このエッセイで私は伝説の映画作家プレストン・スタージェスの名前を初めて知り、と同時に小林氏に限りなき羨望と嫉妬を掻き立てられたのである。
 私事にわたって恐縮だが、後に「月刊イメージフォーラム」の編集者となった私は、1985年にささやかな「プレストン・スタージェス」特集を組んだ。そして、さらに1994年には配給会社プレノン・アッシュに企画を持ち込み、〈プレストン・スタージェス祭〉を開催したのは、私なりの小林信彦さんへの密やかなオマージュ、返礼にほかならなかったのである。

(たかさき・としお 編集者/映画評論家)

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