書評
2024年5月号掲載
雀荘迎賓館は冥土の入り口か
大慈多聞『雀荘迎賓館最後の夜』
対象書籍名:『雀荘迎賓館最後の夜』
対象著者:大慈多聞
対象書籍ISBN:978-4-10-355591-9
麻雀を覚えたての頃、夢中になって読んだのが、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』だった。最後に出目徳が、九蓮宝燈を和了って死ぬところは印象的だ(青春編)。草森紳一の『九蓮宝燈は、極楽往生の切符』によると、九蓮とは阿弥陀浄土のこと、すなわち極楽浄土のことだそうだ。地獄じゃなかったのか。
大慈多聞の『雀荘迎賓館最後の夜』には、『麻雀放浪記』を読んだ時と同じ興奮と感慨があった。カバーの写真は、この小説の舞台となる雀荘迎賓館の入り口のイメージだが、冥土の入り口を暗示しているようにも見える。
非常に複雑な小説なのでストーリーを紹介するのは難しいのだが、麻雀に関するところだけあらすじを書いてみることにする。
プロローグは、この雀荘を一人で切回す敏江が、自宅ベランダに干した大量のハンドタオルを取り込み、一本ずつ丸めてオシボリを作るところから始まる。午後四時前に青物横丁の自宅を出て、商店街で客に出す酒の肴を買い求め、田町駅芝浦口の小さな商店街の外れにある雀荘に、開店の一時間半前に着く。念入りに掃除をし、念入りに牌を拭き、オシボリを蒸し、開店の準備をする。その様子が仔細に描かれている。読者はそれを読み、迎賓館がどんな雰囲気の雀荘なのかを想像する。この始まりの描写が好きだ。
迎賓館はセットが五卓、フリーが二卓ある。フリーA卓は、開店当初に敏江の夫が界隈の商店主たちの要望を受けて、メンバーを会員制にし、三人集まれば夫が打ち繋いで四人目を待っていた卓だ。それから十数年が過ぎ、夫は亡くなりメンバーは高齢になってしまったが、それでもまだ細々と続いている。
フリーB卓は、A卓のメンバーだった法務事務所オーナーの志堂寺が、自分の知己を招いて作ったグループの卓で、毎週金曜日に集まり翌朝まで打つ。メンバーは、志堂寺、レストランチェーン取締役の笠置、広告会社営業局長代理の阿南、公立高校教師の釘宮で、彼らがこの小説の主人公だ。セットの五卓を占めるのは、水道局関連、新聞印刷会社、自動車整備会社のグループと、蔵前倶楽部と名乗る国立大学の学生たちのグループで、この蔵前倶楽部の中で勝ち続けているのが結城だ。
結城は中学生のときからフリー雀荘に通い、高三の夏には二ヵ月半の旅打ちを経験している。麻雀をゲームで覚えた他の学生たちとは、博打に対する認識が違っている。おのずとグループから反感を産むことになり、いずれ嫌悪され、疎外や排除にあうことを結城は知っている。
結城が、B卓に入りたいと申し出た要因はそのことではなく、蔵前倶楽部の柔な麻雀では痺れなくなったからだ。B卓の面々を見ていて、B卓で打てば麻雀の修羅を垣間見ることができるのではないかと思ったのだ。結城もB卓メンバーと同じく、麻雀に狂わせられている。
フリーB卓で、誰もが強さを認めるのが高校教師の釘宮だ。釘宮はケタ違いの記憶力があって、ゲームごとの牌の流れを、シャッターを切るように画像で記憶してゆく。それは危険牌の判定で抜群の効果を発揮するが、強度の緊張が解かれると、幻覚と共に強烈な偏頭痛と吐き気に襲われる。
ある時愕然とする事態が釘宮に起こる。自分がこれから何処へ行くのか、何をしに行くのかわからなくなったのだ。その時薄い霞を見ている。その霞に触れてしまうと、なぜか思考停止になる予感がするのだ。
志堂寺にとって最後の麻雀になったとき、彼は不思議な体験をする。親の笠置がリーチを打ち、釘宮と阿南は降り始め、クズ手の志堂寺も降りるつもりで牌を手にしたら、その牌が雀卓に張り付いて動かない。それが何回も続き、志堂寺はその何者かの指示に従い、最後は大明槓して四暗刻単騎を捨て、清老頭で和了る。志堂寺が迎賓館を出た時、階段の降り口にその何者かがいる。亡くなった妻の芙蓉子だ。季節は晩夏、時刻は午前六時、商店街には人がいない。志堂寺は植え込みの縁に腰を掛け、芙蓉子に手を握られながら死んでゆく。
次の年の三月、迎賓館は閉店になる。告知を出した二月から予約が入り、迎賓館最後の日は満卓になる。次の日は一般客を断り、フリー卓八名だけの貸し切りにした。A卓は十一時前に終わり、B卓の笠置、阿南、釘宮、結城の四人が残る。みんなそれぞれの思いを胸に秘めた麻雀だったが、小場ばかりが延々と続く。
午前四時過ぎに、最後の半荘になった。東一局から南二局まで、誰にも手が入らない。南三局の配牌もそれまで以上にクズ手だった。ところが、ここから四者とも何かに導かれるような自摸が続き、全員が役満聴牌する。釘宮は九蓮宝燈を聴牌している。『麻雀放浪記』へのオマージュではないだろうか。
さて、釘宮は和了れるのか。和了ったらどうなるのか……。
(すえい・あきら エッセイスト)