書評
2024年6月号掲載
新潮選書ベストセレクション2024
歴史も世界もワンダーに満ちている!
北岡伸一『覇権なき時代の世界地図』
対象書籍名:『覇権なき時代の世界地図』
対象著者:北岡伸一
対象書籍ISBN:978-4-10-603910-2
これは稀有な本である。日本はユーラシア大陸の東端の沖合、太平洋の端っこにある島国だが、世界中を相手に貿易を行い、海外を訪れる日本人も少なくない。しかし、著者ほど多くの国を、しかも普通は行かないような途上国を数多く訪ねている人は世界でも数えるほどしかいないのではないか。前著『世界地図を読み直す―協力と均衡の地政学―』に続き、本書で著者は東南アジア・太平洋、南アジア・中東・インド洋、アフリカ、南米、ヨーロッパの二五の国や地域を訪れる。そしてそこで何が起きているのか、日本は何をしているのか、何ができるのかについて考える。
その実体験に多くのデータを加えて語られる諸国の紹介は、月並みな表現で恐縮ながら、目から鱗が落ちる思いをさせてくれる。ルワンダは部族間の大虐殺という悲劇が起きた地だが、その西部には平均標高二七〇〇メートルを超える山脈が走り、最高峰は四五〇七メートルだという。アフリカは砂漠とジャングルとサバンナのイメージが強いが、それだけではないのだ。また、マダガスカルに最初に住み着いたのはマレー系の人々で、今も人口はアジア系統とアフリカ系統が半々であり、主食はコメで、国内に交通信号が一つもない!?
これまで知らなかった世界の実状に目を見開かされるが、本書は私たちの視野を広げてくれるばかりではなく、歴史的な視点を提供することで現状への理解を深めてくれる。著者は言うまでもなく日本政治外交史の泰斗である。その深い学識に、国連大使および国際協力機構(JICA)理事長としての長い経験、世界のリーダーたちとの交流の蓄積が加わることにより、ユニークな視点と洞察が示される。
例えば日本の中南米支援政策についての視座だ。所得水準がさほど低くなく、距離も遠いため、対中南米協力はやや低減する傾向にあった。だが、せっかく日系人が苦労されて親日の土壌がある中南米に対して協力を減らすのは愚策だと考えた著者は、協力強化、関係強化への転換を進めた。JICAの緒方貞子平和開発研究所でも、日系移民史の研究が行われている。
ヨーロッパのポーランドを語る上でも、著者の視点は隣の難しい大国、ロシアないしソ連への対応を共にした明治以来の「親日」の歴史に置かれる。義和団事件で活躍した柴五郎は有名だが、四朗という兄がいたという。柴四朗は日本の独立を守らんとする危機感を背景に『佳人之奇遇』という政治小説を書き、そこで大国の圧迫に苦しむ東欧に関心を寄せていたが、その執筆中に谷干城の秘書官として欧州視察に同行し、ポーランドを訪れたのだとか。これも本書で初めて知ったことだ。
地政学、そして最近は地経学という言葉も人口に膾炙するようになった。だが著者は、それらに並べて「史政学」もあってもいいかもしれない、少なくとも地政学における地理的要素と同じくらい歴史的要素は重要だと思うと述べている。蓋し卓見であろう。管見の限りでも、多くの途上国の人々は独立の際に誰が助けてくれたか、誰が邪魔をしたかをよく覚えているものだ。
著者が追い求めるのは、日本はこの時代、この世界で何をすればよいかという問いへの答えだ。JICA理事だった加藤宏国際大学教授の言葉に共感し、著者は日本が世界の開発学の中心になるべきだと唱える。先進国が支配する国際社会に入り苦労して発展した日本にこそ、その資格があると考え、日本での開発大学院連携構想や日本の近代化の経験を海外で教える「JICAチェア」を推進してきた。欧米流の上から目線の押し付けではなく、相手の立場に立って一緒に考える。人の命、暮し、尊厳を守る人間の安全保障の原則に通じるJICAの伝統だ。
もう一点、読み手の心に残ることがある。それは、価値観が混迷し、各国がアイデンティティを模索する時代に、自由、民主主義、法の支配という近代の理想を日本が支えていくべきだという著者の信念だ。かつて途上国として差別されながら、最初に近代化を成し遂げた日本こそ、近代の理想を生き返らせる鍵を握っているというのだ。
『覇権なき時代の世界地図』という書名も、歴史的な視点からつけられているのだろう。国連改革に関連して著者が述べるのは、日本が過度の対米連携をやめることだ。もちろん対米関係は何よりも大事であり、途上国から信頼され、国連でも活躍する日本は、米国のパートナーとしてより大きな役割を果たせるという。
ぜひ若い人たちに本書を読んでもらい、その面白さにひたってもらいたい。歴史も世界もワンダーに満ちている!
(たかはら・あきお 東京女子大学特別客員教授)