書評

2024年6月号掲載

新潮選書ベストセレクション2024

「隙」からにじみ出る大人の哀歓

谷沢永一『人間通』

與那覇潤

対象書籍名:『人間通』
対象著者:谷沢永一
対象書籍ISBN:978-4-10-603607-1

 昔の知りあいに会うと、「どんな風に暮らしているんですか」と訊かれることが多い。数えてみればもう来年には、所属なしで文章を書く今の仕事が、わが人生で最長の「キャリア」になりそうだ。そろそろ自分のスタイルとして、「職場」での過ごし方を披露してもよい頃だろう。
 端的には、鼓腹撃壌の生活をしている。朝食と洗濯干しが終わる午前9時の前後から、昼食までのあいだだけ原稿を書く。気候が穏和なら公園に出て、集まる人の姿に平和を感じつつ昼食をそこでとり(ついでに一缶くらいアルコールを空け)、買い物を済ませて帰ったら昼寝する。夕方に起き出して洗濯ものを取り入れ、そのあと夕食を店で飲むか自室で飲むかは、昼間の酔いの残りぐあいで決める。
 いわば未来志向のビジネスパーソンに人気の「1日3時間労働」である。本書で最も洞察力を感じるコラムに倣えば、まさにあるべき自尊心の持ち方とも呼べそうだ。

 自尊心には三種類ある。第一種は己れの器量と業績を冷静に自己評価し、十分な満足感を以て自認自足している静謐型である。(「罵倒」本書123頁)

 前から不思議なのだが、メディアで「1日3時間労働」が来るべき理想社会だと託宣を述べる人たちは、私と異なりちっとも静謐でない。講演会やテレビに出てのプレゼンを一日中はしごして、移動の合間もSNSで多忙ぶりをPRし、帰宅後は課金ユーザーに向けて動画の配信だ。
 どう考えても当の本人が、むしろ1日21時間くらい働いているとしか思えない。谷沢風には、自尊心の第二種である「けたたましく騒がしい宣伝屋チンドンヤ」のタイプだろう。
 ところが続きを読むと、ちょっと怖くなる。なぜ人がチンドン屋になるかといえば、「自尊心は人に倍して高ぶっているのに、誰も認めてくれず褒めてくれないものだから、自分を大映しクローズアップすべくさまざまな舞台装置をしつらえる」。私だって本当に静謐型なら、好んで自分の暮らしぶりを開陳する必要はないのに、わざわざこうして書いてしまったのは、心のどこかで注目を欲しているからだ。
 さらに恐ろしいのは、堕落した最悪の形態の自尊心として位置づけられる第三種である。「遠く近くの多少とも関係ある他人の群像を罵倒して自ら高しとし快とする当り散らし屋」。まずい。故あってのことではあるけれど、私も昔の同業者にあたる歴史学者や大学教員を気の向くまま論説で痛罵していたら、旧友からの誘い自体が減ってきた(詳しくは拙著『歴史なき時代に』朝日新書)。でもやっぱり快楽だから、ついやっちゃうんですけどね。
 冷静になると、谷沢さん自身だってこの本の中で、いろんな人を罵倒している。特に嫌いなのが北村透谷だ。一般にはロマン主義に殉じた純情な詩人とされており、文学史の明治のページには必ず載っている。
 しかし本書では、透谷こそが「自分たちだけが秀れた眼識を有するのだと誇示するために先祖と同朋を蔑み卑しめ指弾してやまぬ」、悪しき日本のインテリの原点だと貶される。「自尊心の発作が歯止めを失った屈折と倒錯と卑屈の乱痴気騒ぎ」とまで書くのだからボロカスだ(126頁)。透谷の異様な処女崇拝や、世間知らずの恋愛礼賛も採り上げてその矮小さを突くなど、容赦がない(59頁以下)。
 こうした論調からも察せられるように、谷沢さんは政治的には「右」の識者だった。巻末の桂文珍師匠との対談でも「戦後の自虐史観にのっかっているんですよ。日本人が楽観的な明朗さを失ったのは、朝日新聞とNHKの罪です」と放言している(224頁)。そこだけ切りとると、なんともわかりやすく党派的な人にも見える。
 ところが同じ陣営の人たちがせっかく右派系の教科書の編纂に漕ぎつけたとき、谷沢さんは間違いの多さに激昂して『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、2001年)まで出してしまった。「派閥に忠誠心は必須であるが、融通のきかぬ愚直は馬鹿にされる」と本書でも書いていたのに(130頁)、ずいぶん愚直である。
 つまり『人間通』と題して本まで書ける人間観察の達人でも、いざその教訓を実践する段になると、コケてしまうのがまた人間的なのだ。自分でも失敗した体験があれば、人間かくあるべしといった警句を綴る際も、「そう立派にはいかないけどね」とこぼすボヤキが行間に染み入ってくる。それがユーモア交じりのペーソスを生む。
 近ごろの人生論や自己啓発の書籍は、谷沢さんのような「隙」を感じないものが多い。文字面で粉飾されたライフスタイルの完璧さを演出だと見抜けない――通にはほど遠い読者を騙して、「人間を知らないままでいてもらう」ために作られているからだ。「人間は不完全だからAIに期待しよう」といったオチばかり流行る理由も、同じだろう。
 そんな世相に疲れた人に、本書からにじみ出る大人の哀歓を煎じたい。人間のダメさは治しようがないけど、互いにそれを玩味しあえば、いつしか人生の良薬になる。

(よなは・じゅん 評論家)

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