インタビュー

2024年6月号掲載

〈変な日本人〉の観てきたもの

小林信彦

スラップスティック映画を縦横に論じた名著に、スクリューボール・コメディや現代の喜劇人を評した文章を併せ、喜劇映画百年を鮮やかに現前させる決定版刊行! 最新の肉声を伝える「インタビュー」を再録します。

対象書籍名:『決定版 世界の喜劇人』
対象著者:小林信彦
対象書籍ISBN:978-4-10-331829-3

 ――『世界の喜劇人』は、一九六一年に「映画評論」で連載された「喜劇映画の衰退」という三百枚の原稿(『決定版 世界の喜劇人』の「I」の第二部にあたる)がそもそものきっかけですね。小林さんにとっては、最初の長い作品でもあります。

小林 当時、佐藤忠男さんが「映画評論」の編集長をされていて、僕の二つ年上なんです。彼自身が長い評論を書いてデビューしたこともあって、同世代の書き手に長いものを書かせたがっていました。それで声がかかったのが、僕や森卓也さん、おかだえみこさんなどですよ。せっかく与えられたチャンスだから、僕も喜んで、「よし、子どもの頃から観てきた喜劇映画のギャグについて、まとまったものを書いてやろう」と意気込んだものです。早稲田の学生の頃から、演劇博物館で戦前の映画研究誌を調べてノートをとったり、サイレント喜劇を意識的に観たりしていましたから、書ける見通しはありました。ただ、佐藤さんは生真面目で、ギャグがわかる人ではない(笑)。そこで「映画評論」編集部にいた品田雄吉さんにサポートしてもらいながら、書き上げたのを覚えています。

 ――反響はいかがでしたか?

小林 単行本の声はいろいろかかったのですが、どれも実現しないうちに(六三年になって校倉書房から『喜劇の王様たち』として刊行)、六一年の夏に、放送作家だった永六輔さんとNHKの末盛憲彦ディレクターに呼び出されて、「あの評論はとても面白かった。『夢であいましょう』でギャグの特集をしたいから手伝ってくれ」と、アイスコーヒー一杯で口説かれました(笑)。「夢あい」はNHKで土曜の夜にやっていたヴァラエティ番組です。手伝うと言っても、ギャグに詳しい人間がほかに誰もいないんだから、僕が出るしかなかった。五週連続で「夢あい」に出て、スタジオでスラップスティックを実演したんです――例えば黒柳徹子さんに僕がパイをぶつけられたり、逆に僕がE・H・エリックさんの頭を洗面器で叩いたりした。この現場で、渥美清さんと益田喜頓さんと知り合えたことは、『おかしな男 渥美清』に書いたとおりです。あと、坂本九さんが〈今月の歌〉として「上を向いて歩こう」を歌って、(ああ、これはいいな)と思ったのが印象に残っています。
 番組のホンは永さんが書いたのですが、浅草のお寺の息子だから話すのはうまいんだけど、彼もべつにギャグがわかるわけではないから、そこを渥美さんの芸がフォローしていた。それが実に器用で、スマートで、引き出しも多くて、すごい人がいるなあと感嘆しました。渥美さんは自分の芸を半分も見せずに亡くなったと、僕は今でも思っていますよ。
 もうひとつの反響は、「週刊読売」にいた長部日出雄さんから、「大島渚が『映画評論』を読んで、会いたがっている」と連絡がありました。長部さんはジャーナリスティックな勘が鋭くて、〈松竹ヌーベルバーグ〉の名づけ親ですから、大島さんたちと仲が良かった。大島さんは『日本の夜と霧』上映打ち切り事件があり、松竹を辞めたばかりの時期です。
 で、大島さんに会ったら、僕に「あなたのような人が喜劇映画を撮るべきなんだ」と熱弁をふるうんですね。「チンコロねえちゃん」というマンガを映画にしたいのだけど、監督にふさわしいやつがいないんだ、と言う。確かに、大島さん自身もギャグがわかりそうにない(笑)。いや、彼の「絞死刑」(六八年)はブラック・コメディの傑作ですけどね。
 当時の僕は勤め人(「ヒッチコックマガジン」編集長)だったし、志は長篇小説執筆にあったから、「監督は無理だけど、脚本やギャグ監修なら手伝えるかもしれない」と言ったら、じゃあ、石堂淑朗さんと組んで「チンコロ姐ちゃん」の脚本を書いてくれ、と。そこで石堂さんと旅館に籠って、スラップスティックについて議論したことを覚えています。当の脚本は完成したんだけど、出資元が手を引いたとかで、陽の目を見ませんでしたが。

 ――『喜劇の王様たち』がやがて大島監督の命名で『笑殺の美学』(七一年、大光社)となり、さらに晶文社版『世界の喜劇人』(七三年)となった経緯は本書(『決定版 世界の喜劇人』)の「あとがき」で読んでいただくとして、版元が変るたびに増補され、晶文社版は新潮文庫版(八三年)、そして本書の「I」の基本形になりました。

小林 晶文社が『日本の喜劇人』の後、『世界の喜劇人』も出してくれることになった、ちょうどその頃、世界を一周したら安くなる航空券があったんですよ。それでヨーロッパからアメリカをまわって、日本で観られなかった古い映画をたっぷり観たんです。とりわけマルクス兄弟の映画をすべて、それも繰り返し観ることができたのは大きかった。フランスでは仏語吹き替えのマルクス映画にあたってお手上げになったり、アメリカでは映画会社の人が「変な日本人だな」と喜んで、いろんな作品を観せてくれたり。配信やBlu-rayどころか、まだビデオの時代にもなっていない頃ですから、『世界の喜劇人』執筆には大助かりだったし、何よりついにマルクス全作品を観ることができて本当に嬉しかった。洋書を買うにも丸善やイエナなどしかなかったので、喜劇の研究書も大量に買ってきました。
 僕がよく欧米へ行っていたのは七、八〇年代ですが、ニューヨークでもパリでもローマでも、マルクスの映画はいつでも映画館にかかっていました。その時、あちらで「次はこいつだ」と目され、旧作も新作もさかんに上映されていたのがウディ・アレンですよ。今や、スキャンダルのせいで、もうアメリカでは撮れなくなっているそうですが。

 ――ウディ・アレン以降のコメディアンについては、いかがですか?

小林 スティーヴ・マーティンなんかいいと思うんだけど、実は『世界の喜劇人』を書いたことで、現代の喜劇人を追いかけることに少し熱が冷めちゃったところはあるんです。最近は喜劇人で映画を観るんじゃなくて、女優で観ています(笑)。それは冗談半分にしても、『世界の喜劇人』がスラップスティック中心だったので、今度はスクリューボール・コメディ、ロマンティック・コメディを系統立てて観るようになりました。これは、ようやく日本でも、エルンスト・ルビッチやプレストン・スタージェス、レオ・マッケリイなんかの旧作や未公開作が観られるようになったおかげですね。渋谷に品揃えのいいビデオ屋があって、ここの店員がやたら詳しくて、アメリカで古い映画がソフト化されたりすると、「あれ入りましたよ。ご覧になってないでしょう?」なんて連絡をくれたものです。
 喜劇の歴史を振り返る時に、マルクス兄弟やキートン、チャップリンたちだけでなく、ルビッチやスタージェスたちの仕事やジャンルも、むろん無視してはいけないわけで、この『決定版』では「II」のパートで補いました。「I」と「II」を併せて読むことで、喜劇映画百年史の全体像みたいなものを、ごくおおまかにでもわかってもらえたら、と願っています。

(こばやし・のぶひこ)

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