書評

2024年7月号掲載

心音とともに心臓が歩いている宇宙の果てへの野の径を

最果タヒ『恋と誤解された夕焼け』

吉増剛造

対象書籍名:『恋と誤解された夕焼け』
対象著者:最果タヒ
対象書籍ISBN:978-4-10-353813-4

 詩の土埃のような、白い蛾の撒いたのような、……ながれ星のも、それにしてもなんとも不思議だなこのてのひらはと、あらためて裏にしてみた仕草の記憶も、たしかなのに、辿り直してみると景色がちがう……。これはと、詩の鼓動の未来を開いているのだな、……読み返すたびに、最果タヒの詩篇は、杣道をかえる。五読六読のときであっただろうか、これはひそかに書くことを同伴しているらしいことにも、山道の小枝を折って道しるべにするメモをとっていて気がついていた。いや、読み手/書き手も、その都度その都度、“読む”や“書く”というよりも、“なぞる/たどる”仕方で、瞬時に仕草を変えていて、それに気がつくことが最果タヒの言葉を読むということではないのだろうか。そうか、“気がつかなかった”ことにも“気がつく”ということでもあるのであって、五読六読の折には、その折の別の戸口で気がついて、その別の戸口が開いてしまうこと、そのことの怖ろしさでもあったのだった。

 たとえばわたくしは、何処でそれに気がついたのか、二行目と七行目の“日差し”が、もっともわたくしたちに近い恒星への深い挨拶であるらしいことに、おそらく、“心の奥”と“唯一の”によって、わたくしたちも咄嗟に気がついている。最果タヒの宇宙性、深淵にとどく心はおそらくここにある。
 さらに、最果タヒの詩には、その根が何処にあるのかボーとするような声が這入って来ていて、ときにはそれが微妙な口調として、わたくしたちの心にいいしれない棘が傷跡を光らせるのだけれども、こうした傷口は、……ここではこんな詩篇の“ハ”にも、……とそう、誰かが気がついている。

愛してくれた人全員を大好きになれていたころ、
私の心の奥にまで日差しは届いていたけれど、
でももう届かなくてもいい、
そこに色褪せやすい押し花を飾って、
私は夜にそこで眠るから。
誰にも愛されなくてもきみを愛し続けるだろう。
私の唯一の日差し。
きみが一番幸福なときに
贈る花束になるためだけに、きみが好きだ。

窓際の詩

やさしい人はいなくて、柔らかい人だけがいて、
みんなが誰も刃物なんて持っていないと、
信じて、抱きしめ合っている。
愛し合っているのにとてもさみしい。
刃物を持っていてもいいよと
どうして言ってあげられないのだろう。
強くなれと言われたくなくて、
世界は美しいと信じたがった。
きみが最低な選択をしたとき、
ぼくはきみを愛したままでいる。約束する。
ぼくがきみの刃になる。

花束の詩

 これも、咄嗟に“刃物”が最終行で“刃”に変ったことの衝撃を“ハ”としかいいえない、迷い=驚きの現場のような難路に杣道はさしかかっていたらしい。さらに、あるいはこの“ハ”は、別乾坤からの幽かな声であったのかも知れなかった。とすると、詩を書くこと、詩を読むことを敢えて難路とすることの謗を受けるのかも知れないのだが、最果タヒの詩にはそれがたしかにあって、しかし、いまから引用をする“お前は誰だよの気持ち”を、あなたはどう書き変えるのか。芥川龍之介なら“浪打ち際にしゃがんだまま、一本のマッチをともす、……”(芥川龍之介、「蜃気楼」)のだろうが、……。

爆撃機に乗って
生きていることが許されないと言われる時のお前は誰だよの気持ち、
暴力を振われる時のお前は誰だよの気持ち、
刃物を向けられる時のお前は誰だよの気持ち、お前は誰だよ、
神様がやってくることを期待していたいろんな人たちが
罰を受けて地獄に落ちていく、
そんな日は来ると教えられていた、でもお前は誰だよ、
神様でもないのにきみは許さないと、他人に言ったお前は誰だよ?
(中略)
ここに私たちはいない
とうの昔に連れ去られて
てのひらに全員分の心臓を乗せられて目隠しをされて、
膝をついて中腰のまま耳を澄ましている
簡単に人を殺せることなんて最初からわかっていました(あなたもね)
許される範囲でしかまだ人は死んでいないので無実というだけ
この世に 私を罰する神様はいない
殺し合う権利はない

 小文の最後にこの詩を引いて“お前は誰だよの気持ち”とも、詩の土埃のような、白い蛾の撒いたのようなものかことを、野の径で、垣間見たかったのは、“てのひら”や“心臓”ではなく、おそらく“膝をついて中腰のまま”にあったらしい。詩は変った。繊細さ、心映え、心細い難路を、……こうして、最果タヒは切り開いたのだ。

(よします・ごうぞう 詩人)

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