書評
2024年7月号掲載
尽きることなき、物語の魔力
宇津木健太郎『猫と罰』
対象書籍名:『猫と罰』
対象著者:宇津木健太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-355671-8
人間が人間を殺して、その肉を喰らったりしたら、これはもう大事件と言うか、立派な「猟奇犯罪」となることだろう。
しかしながら、その一方で、人間が道ゆく猫を無差別に殺しても、そこに正当な理由などなく、ただ「むしゃくしゃしたから」とか「怒りの捌け口を求めて」などといった身勝手極まる理由で、何の過失もない猫の命を一方的に奪っても、必ず罪に問われるわけではない(まあ近年は「動物愛護」の観点から、そうした行為が社会的に非難されるケースも少なくはないのだが……少なくとも「猫殺し」の罪で実刑を受けたり処刑された人間は、過去に例があるまい)。
これは当事者である猫たちの側から見たら、ただただ怖ろしく、忌まわしく、このうえなく不条理な出来事であるに違いない。
本書の主人公である「金之助」もまた、幾度となく命の危険に晒された揚げ句、無惨かつ非情にも、人間たちの身勝手なふるまいによって、情け容赦なく命を奪われ、それゆえ深刻な「人間不信」に陥っている。人間どころか同胞である猫たちにも、容易に自身の素性や心のうちを明かさないほどに……。
「猫に九生あり」と西洋の諺にも言われるように、本書に登場する猫たちは、いずれもが何度かの「転生」を重ねており、主人公の「金之助」に至っては、大飢饉の江戸時代を皮切りに、明治・大正・昭和と続く激動の時代を、死に代わり生き代わり、すでに八度の転生を繰り返してきた、とされている。そのたびに、悲惨な「人生」ならぬ「猫生」を目の当たりしてきたわけで、これでは重度の人間不信に陥るのも無理はないな、と思わせられる。
ちなみに「金之助」には、心から慕ってやまない飼い主(二度目の転生の際に出逢った人物)がいた。その名前からも想像がつくだろう文豪中の大文豪「夏目金之助」(漱石)である。そう、本書の主人公・金之助こそは、漱石一代の出世作『吾輩は猫である』の主役たる、あの黒猫の生まれ変わりなのだった。
「吾輩は猫である。名前はまだない」という名高い冒頭の一節にあるとおり、「金之助」は彼(=猫)自身の命名による仮の名で、飼い主たる漱石が付けた「真名」(真の名前)ではない。「だからこそ、『三つめ』の命を受けた時、己はどうしても、あの男に名前を与えて欲しかった」という願いも空しく、この「癇癪持ちの厭世家」は、遂に「金之助」に呼び名を与えなかったのである。
物語は、「金之助」があてど無き放浪の果て、運命的に流れ着いた一軒の古本屋――「北斗堂」を舞台に繰り広げられる。客たちが本を購入しても、いつの間にか代わりの本の補充が成されている、その不思議な書店は、北星恵梨香という女性店主が四匹の猫たちと共に暮らす、一種のユートピアであり、同時にそら怖ろしい牢獄でもある、何とも奇妙な「呪縛」空間だった。
五匹目の書店住人となった「金之助」は、書店の常連である「円」という名の、本をこよなく愛し、自分も物語の語り手たらんと欲する娘と知り合い、初心な彼女の姿に、懐かしい飼い主=漱石の面影を重ね合わせたりもする。
ちなみに、本書には漱石以外にも、猫を愛した近現代の文豪たちが、ふらりと、懐手をして過ぎり去る。池波正太郎しかり稲垣足穂しかり、室生犀星またしかり……。
やがて金之助は、迷宮めいた夢さながらの世界で、実に途方もない存在(いや、本当に途方もないのよ、まさかこんなところに、あのお方が顕現されるとは!?)と出逢うことになるのだが……。
実は小生、本書の著者とは、東京創元社のホラー長編賞の選考会で、原稿用紙越しに面識がある。そちらは、もう臆面もないホラー作品で、残念ながら受賞を逸したのだが、結果的に本書で、本格的な作家デビュー(物語の紡ぎ手としての)を果たすことになったのは、結果オーライというか、良い事だったのではないかと愚考する次第。
なぜなら本書は、千変万化する「物語」に魅了されてやまない人々に、著者が無量の感慨と共感をこめて贈る、永遠に尽きることのない物語、なのだから!
蛇足を申せば、これは〈日本ファンタジーノベル大賞〉に、まことに相応しい物語だと、私は思う。
(ひがし・まさお アンソロジスト/文芸評論家)