書評
2024年8月号掲載
少年には、そこからしか始められない場所がある
佐藤厚志『常盤団地の魔人』
対象書籍名:『常盤団地の魔人』
対象著者:佐藤厚志
対象書籍ISBN:978-4-10-354113-4
少年だった頃のことを思い出すと、確かに自分にないものを持つ人間への盲信的な憧れが、一つの、絶対的な世界を作っていた。新しい欲望や美徳は、そのなかで育まれる関係性のなかで植えつけられていた。そこには同時にゆるぎないヒエラルキーが確立されていて、だからたぶん、あれは子どもにとって初めての社会だったのだと思う。
この小説の書き出し〈団地一体がこんもりとした森のようだった〉の〈森〉とは、そう考えるなら、少年たちの権力関係が作りあげる最初の共同体のことなんだろう。
ここ、常盤団地は1990年代に転勤族の会社員が安く住むための雇用促進住宅として建てられた。当時は人気のある物件だったものの、現在は老朽化が進み、地元の工場で働く労働者や外国からの移住者などが多く暮らすという。
四つほど並ぶ棟のうち、小学三年生になる今野蓮は三号棟に住んでいる。喘息持ちの蓮は学校では昨年度まで人数の少ない特別支援学級に通っていた。通常のクラスで学ぶのは今年の春が初めてで、だから友達は学校にほとんどいない。新しいクラスで級友になる親分気質のケントと血気盛んなヨウスケが距離を縮めるくらいで、彼がみずからを充足させる人間関係は主に団地のなかで作られる。
蓮がこの物語で行動の多くを共にするのは団地に引っ越してきたばかりのシンイチだ。同い年の二人は友情というより、不思議な仲間意識で結ばれる。
よそ者に敏感な常盤団地には、幅をきかせた子どもたちの一派がある。ワコウ軍団と呼ばれるそのグループのリーダーは、ワコウイッセイという不良少年。暴力性と求心力を持つ小六の彼は権力を握り、団地のなかで恐れられている。同じく乱暴者の蓮の兄・光平や軍団で唯一、団地外で暮らすカトケンといった一つ年下の悪ガキを従えるイッセイに、蓮とシンイチはどこか憧れの気持ちを抱いているのだ。
イッセイは三つ下の蓮にとって恐怖の対象でしかないが、〈恐れを抱けば抱くほどにイッセイから声をかけられたい、仲間に混ぜて欲しいという思いが膨らむ〉。悪さを実行する彼らを目撃してはシンイチと一緒に〈自分たちも悪事に加わり、何かしでかしたい気分に〉なる。けれども、ワコウ軍団への憧れと恐怖は二人のちっぽけさを際立たせるばかりで、それを巧妙に描きあげるこの小説は、少年という存在の根源にある実存的なゆらぎを見つめている。
イッセイに憧れる蓮を突き動かしているのは、言ってみれば、ホモソーシャルな欲望の原型のようなものだ。男性同士による排他的な関係性は、ある場合には問題を生じさせうるが、ここではそれ自体は否定的にも肯定的にも描かれない。少年を駆り立ててやまない、力への羨望。ホモソーシャルな社会に認められることの喜び。どうしようもなくそこへ向かう蓮の内面を作者は、冷静に覗き込む。そのフェアで批評的なまなざしを、僕は強く信頼したい。
〈こんもりとした森〉である常盤団地は、全てがそのなかで完結するエコスフィアだ。自警団も配備され、管理人が秩序を守る団地では、内外からの不穏な動きは排除される。蓮をその世界に自己同定させ、そこでの成長を描く本作は、彼にたびたび団地の《外》で失望を経験させる。
級友のケントとヨウスケが思わせぶりな態度で案内した秘密の場所が単なる池だったことに蓮はがっかりするし、物語の後半、捨て犬の処置をめぐりイッセイと喧嘩したカトケンの家で自家製バナナケーキをご馳走になるもまずくて〈吐き出したく〉なる。物語のなかで、蓮の好奇心は生活水準的にはより上等な暮らしのある《外》の世界に対して抱かれるのではなく、あくまでも内へ、内へと向かっていくのだ。
そのさきで彼は何を発見するのか。イッセイの悪事に巻き込まれ、また、家では父親の暴力を浴びる蓮は、絶えず、自分より強い他者との関係のなかで自身を弱い存在としてさだめてきた。だが、そこでたくさんの痛みを被った蓮は、周囲で何度も不思議な現象を起こしていた〈魔人〉の正体に思いを馳せながら、最後、自分が自分であることを守るための強さを掴む。
決して居心地のいいわけではない団地のなかで、世界と対峙しうる自分を育てていく蓮を、僕は頼もしいと感じた。少年には、そこからしか始められない場所がある。この社会の悪弊が詰まった常盤団地を原点に持つ蓮ならこの先も、きっと大丈夫。彼には信じられる自分があるのだから。
(ながせ・かい 書評家)