書評
2024年8月号掲載
人間の抱える洞(うつお)を照らしだす傑作
赤松りかこ『グレイスは死んだのか』
対象書籍名:『グレイスは死んだのか』
対象著者:赤松りかこ
対象書籍ISBN:978-4-10-355461-5
数年前、ある文学賞の選考で、運動会のひと幕を鮮鋭な感覚で綴ったエッセイを読んだ。それは同賞の随筆部門で圧倒的一位を獲得し、受賞者は授賞式で、いずれ小説を書きたいと思っている、と控えめに述べた。
それが、2023年に「シャーマンと爆弾男」(本書併録)で新潮新人賞を受けて文壇に登場する赤松りかこだった。筆名が違ったのでエッセイの筆者だと気づかなかったが、同作にはたちまち魅せられた。南米の聖なるシャーマン神話と、介護ホームに暮らす母と路上生活者の物語を、鋭くかつ滑稽みのある頓降法を利かせて書いている所が非常に面白かった。
この第一作から驚くほど間をおかず発表された次作が「グレイスは死んだのか」だ。私はデビュー作からのさらなる伸長ぶりに目を瞠り、真の才能を確信したのだった。
赤松氏があのエッセイの筆者だと編集部から知らされたのは、その後のことだ。一貫して彼女の文章に惹かれてきたことに、われながら納得の感があった。
さて、「グレイスは死んだのか」は、暴力を恃んで馬や犬を調教してきたある男の語りを核としている。「調教はその枠に、何の感情も持たず、自分から入っていくようにすること」「躾は誉める、叱るのバランスが必要だが、調教は時に応じた痛みを与えることがすべて、そうじゃないすか? いや、そうなんす」と嘯く、どこか狂気を感じさせる人物だ。
いま彼の飼い犬グレイスは原因不明のまま死にかけている。男はかつてこの犬と深山に踏み入り、遭難して死にかけた体験を獣医に語りだす。過酷なサバイバルのなかで、調教の軛は次第にほどけ、人間と犬の主従関係が逆転しはじめる。本能のままに鹿の屍に食らいつくグレイスに、男は猟銃を向けて……。
このナラティブにも、作者の才気が輝きでている。男の一人称独白の形式をとらず、その話を聴く女性獣医の「再話」として語っているのだ。つまり、三人称文体に変換されているのだが、この語りの差異にこそ作者の文学性が煥発する。
元々の男の語り口は、アボリジニが編む「ひょうたん型のカゴ」を思わせたという。その独白を引きとった獣医の中で語りが膨張し、ときに限界を超えて歪みだすと、視点がうっすらと破れて誰とも知れない目を引きこんだりする。どこからが獣医の夢想なのか。緻密に構築された語りだ。
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赤松りかこの小説を一読すれば、そこに大江健三郎を読みこんできた轍が、ときにくっきりと見出されるだろう。犬といえば、大江作品にはつきものと言ってもいい。「ジステンパーの犬さながらまことに憐れっぽくみっともない」とか「獲物を追いつめた犬の昂奮をあらわして」などと喩えに盛んに使われるだけではない。山犬狩りへの言及で幕を開ける「飼育」から、犬の死殺作業を描く「奇妙な仕事」、親友が自殺した後主人公がまっくろの犬と庭の穴にこもる『万延元年のフットボール』(彼の弟の中にも犬の魂が入りこむ)、巨大な「壊す人」が縮んだのちに「犬ほどの大きさのもの」に再生する『同時代ゲーム』……。
犬は、精神の昏い領域を表象する何かだろう。
「グレイスは死んだのか」の犬とは何か? じつは私のなかで本作と鮮烈に重なってくるのは、詩人T・S・エリオットが代表作「虚ろな人びと」に一節を引いたジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』なのである。語り手はコンゴ河を遡行し密林の奥へ分け入るうち、そこに人間の抱えるhollow(空虚)を見出す。
「グレイスは死んだのか」で、男がいったん語り終えたとき、獣医はこんな印象を抱いた。
その小さな体を満たしていた暴力への信仰に近い執着は、今やごっそり抜け落ちていた。深山でかれの洞は何によって満たされていたのだろう。
男は深山での屈辱的な経験とグレイスの実質的な死を経て、空っぽになっていたのではないか。『闇の奥』では、象牙王国の暴君クルツがその寓居の周りを生首で囲みながら、自らの内に巨大な空虚を抱えていたことを語り手は認識する。コンラッドはその対比を、文明人の言動の薄っぺらさと、原始林の猛々しい濃緑の不透視性、つまりは「空なるものと密なるもの」の対照によって示したのだった。
「グレイスは死んだのか」の犬は、密な何かだったのではないか。対照的に、山奥の鬱蒼とした樹林の中に時折現れる「うろ」や「洞」といったhollowなものが印象的だ。男がつぶやいた「こんな無残なことはない、こんな無残なことはない」という連呼の言葉は、いま私の中でクルツの今わの際の言葉、「なんと恐ろしい! なんと恐ろしい!」と響きあっている。
獣と人、屈服と交感のはてに、一体なにが死んだのか? 人間の抱える洞を暗く照らしだす紛れもない傑作だ。
(こうのす・ゆきこ 翻訳家/文芸評論家)