書評

2024年8月号掲載

今月の新潮文庫

二〇二四年の大収穫!

永嶋恵美『檜垣澤家の炎上』

大矢博子

対象書籍名:『檜垣澤家の炎上』
対象著者:永嶋恵美
対象書籍ISBN:978-4-10-105451-3

 明治の終わりの横浜。
 高木かな子は、絹織物を中心に扱う貿易商・檜垣澤商店当主の妾腹として誕生した。母やばあやたちと一緒に暮らしていたが、父が卒中に倒れ、母が急死したことで運命が大きく変転する。
 七歳のかな子は紆余曲折を経て檜垣澤家に引き取られることに。父が倒れても会社は父の妻である大奥様・スヱが万事取り仕切っており、何の問題もない。その長女(かな子にとっては歳の離れた姉に当たる)・花と次代の当主たる婿・辰市の間には郁乃・珠代・雪江という三人の娘がおり、郁乃もすでに婿を取っている。
 つまり、妾の子でまだ幼いかな子が入る隙はどこにもないのだ。したがって引き取られたといっても正式な娘としてではなく、部屋は女中部屋の一角。学校に行く以外の時間は寝たきりの父の世話をするという生活を送ることになる――と書くと、妾の子が虐げられるという、極めてベタな設定に思えるだろう。ごめん、私もそう思った。
 ところが、これがめちゃくちゃ面白いのだ。いやあ、驚いた。読み始めたら先が気になってやめられず、他の予定を全部とっぱらって一気読みしてしまったほどである。
 引き込まれた最初の理由は、このかな子のキャラクターにある。虐めにじっと耐える健気で可哀想な女の子を想像してたら背負い投げを喰らうぞ。
 檜垣澤家では、まず、次の当主になるはずだった婿の辰市が蔵の火災で亡くなる。次いで、元号が大正に変わってすぐ、現在の当主であるかな子の父が亡くなった。二人の男が死んでもスヱの手腕で家はまったく揺るがないが、かな子にとっては後ろ盾がなくなったことになる。ここからのかな子が読みどころだ。八歳にしてめちゃくちゃ賢いのである。使用人や書生たちの会話に耳を澄ませて情報を集め、年上の姪である珠代や雪江に気に入られるべく彼女たちの望む「可愛い妹」像を演出し、人品を見抜く目を持つスヱに対するときは自らの賢さをさりげなく出す。使用人たちの嫌がらせすら、自分の地位を確立するために利用するのだ。いやはや、こましゃくれているというか末恐ろしいというか。
 しかし所詮は子ども、序盤はまだまだかな子にとっては修業中と言っていい。それなりの目と権力を持った大人には敵わない。利用したつもりが利用され、という頭脳戦にはワクワクした。女学校へ進む頃には、かな子は相当の策士になっている。自分の頭脳ひとつで運命を切り開くダークヒロインだ。かっこいいじゃないか!
 そんなかな子にも親友ができる。恋ではないが気になる男性も登場する。これが第二の読みどころだ。青春小説として、成長小説としても実に読ませるのだ。常に戦略の中にいるかな子にとって初めてできた親友との、時間を忘れる会話の楽しさ。笑顔が特徴的な医者の家の書生には、なぜか素の顔を見せてしまう戸惑い。数少ない、かな子が十代の娘として素直に存在できる場面が実にいい。まあ、それも物語の展開で色々とあるのだけれど。
 そうそう、忘れてはいけない、時代小説としての面白さもたっぷりある。大正時代の横浜の景色や風俗。上流階級の交流の様子。大正デモクラシーという時代の中で起きた事件の数々。スペイン風邪の大流行にはコロナ禍を想起せずにはいられない。第一次世界大戦の特需と戦後不況。もちろん終盤にはあの大きな出来事が待っている。
 私は常々、たった十五年しかないのに大正時代にはいろいろ詰め込みすぎじゃないかと思っているのだが、その大正時代のあれやこれやが物語の中で意味を持って登場する構成は見事という他ない。港町横浜の喧騒、上流のマダムたちのお茶会や園遊会のさざめき、大振袖やドレスの色合いに始まり、疫病による閉塞感や災害がもたらす土煙、そして時代が生み出す無秩序にして猥雑な空気。そのすべてがこの物語に詰まっている。
 そして――これが時間を忘れて読み耽った最大の理由なのだが、本書は実によく練られたミステリなのである。
 婿養子の辰市の死は、実は殺人であった可能性が序盤に仄めかされる。そこからはかな子のダークな小公女っぷりに魅了されてその事件を忘れてしまうのだが、終盤に来てさまざまな事象が一度につながるのだ。事件の真相だけではなく、檜垣澤家そのものが抱えている秘密が明らかになるくだりと来たら! そこか、そこだったのかと仰け反ってしまった。
 サスペンスとして、家族小説として、青春小説として、成長小説として、時代小説として、そして何よりミステリとして、全方位に密度の濃いエンターテインメントである。とにかく圧巻。ラストで大きく変貌するかな子に刮目せよ!
 永嶋恵美はこれまで、軽やかな作風のミステリか、もしくはイヤミスを得意にしてきた印象がある。しかし本書は新境地だ。こんなものが書けるのかと唸った。化けた、と言ってもいいのではないか。これは今年の大収穫だ。

(おおや・ひろこ 書評家)

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