書評
2024年9月号掲載
見る者こそが、見返される
中野京子『名画に見る「悪」の系譜』
対象書籍名:『名画に見る「悪」の系譜』
対象著者:中野京子
対象書籍ISBN:978-4-10-353232-3
「崇高なものから醜悪なものまで、人間が抱くありとあらゆる衝動と欲望はすべて、君が今いるこの部屋(ボストン美術館ギリシャ陶器の間)の中にある!」「歴史とは、単に過去の研究ではなく、現在を説明するものなんだ……」(筆者意訳)というのは、映画「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」の劇中でポール・ジアマッティ演じる主人公が放つ名言だが、それはほとんどそのまま、中野京子さんの著作を読むときの感慨にも、当てはまるように思う。
それまでただただ格式ばって見えるばかりだった名画の数々が、それこそ映画に小説、オペラや歌舞伎に至るまで、幅広いジャンルからの引用も自在に織り交ぜてゆく中野さんの解説によって、たちまち生き生きとした、現在進行形の体温を放ちだす。言い換えれば、古典が突如として、「自分事」になる!
まして今回のように、主題が「悪」となれば……作品を鑑賞する私たち自身の在り方もまた、より鋭く逆照射されることになるだろう。何が「悪」とされてきたのか? なぜそれはわざわざ描き残され、のちの我々に見返され続けるのか? その問いは必然的に、この社会の中に今も息づく無意識の欲望や偏見を、否応なく浮き彫りにもしてしまう。中野さんの本が、「怖い」所以である。
冒頭一発目、ウィリアム・ホガースが啓蒙のために制作したという《残酷の四段階》の章からして、いきなり強烈だ。ある少年がやがて凶悪な犯罪者に成長し、ついには捕われ死罪に処されるまでの諸過程を描いた連作で、本書に図版が掲載されているのは第一図と第三図のみだが、結末となる第四図《残酷の報酬》では、絞首刑後の(しかし絶命しきっていない?)主人公に、公開解剖が施される様子が克明に描かれているという。社会の側こそが「残酷」を求めているようにも見えるこの皮肉な構図は、現に好奇の目でそれを愉しんでいる後世の鑑賞者自身をも、自動的に飲み込むこととなる……そもそも最初の《残酷の第一段階》からして、「遊びとしての動物虐待」に興じている子供が、実は主人公一人だけでは全くなく、むしろ画面内の圧倒的多数を占めている! という点にこそ、真に恐怖すべき真実があるのではないか。
2017年開催「怖い絵」展では、同じホガースの《ジン横丁》に比べて本作への反響は小さかったということだが、ひょっとすると私も含めた来場者は、自覚しないまま、「自分たち自身」から目を逸らしてしまったのかも知れない。
ある種の社会的欺瞞を図らずも浮かび上がらせてしまうという意味では、ジェローム《古代ローマの奴隷市場》も強く記憶に残った。全裸にされた女性がオークションにかけられている場面を描いた同作、そのポルノ的側面についてももちろん中野さんは言及されているが、それに続いての、要はフランスが奴隷制度を廃止して約三十年後、まるで他人事のようにこの手の絵が量産されるようになった、という指摘には、ハッとさせられる。女性を性的に消費すること、人身売買、いずれも二十一世紀の今、実際にはまるで過去のものとはなっていないことを考え合わせると……。
一方で、いわゆる「悪女」の表象が、特に現代の目で見ると、明らかに一種の痛快さに満ちているように感じられるあたりも、本書全体を通して非常に重要なポイントだと思う。表紙にもなっている《犯行後のクリュタイムネストラ》の堂々たる「誰にも文句は言わせねぇ!」感を始め、《目を潰されるサムソン》で見事本懐を遂げたデリラの表情に宿る「仮面」を脱ぎ捨てた女性の強さ、パブリックイメージと異なる凜とした佇まいをこそ自らの意志で残した《マタ・ハリ》の挑戦的な眼差し……そして無論、《エヴァ、蛇、そして死(としてのアダム)》における、「原罪」なるものの責任を一方的に押し付けられた存在としての女性、しかしその「そんなの私は知りませーん?」と言わんばかりの(笑)ふてぶてしい笑み!
今以上に(ってどんだけ)精神的にも物理的にも狭い狭い枠組みの中に押し込められていた女性たちが、それでも抑えきれぬ力で当時の社会通念を突き破り、逸脱してゆくとき、世間がひとまず納得、安心するために貼ったレッテルが、「悪女」というものだろう。しかし、絵画に描かれた彼女たちは、時を超えてこちらに問いかけてくる。本当に「悪」なのは、どちら? と。
もう一度言うが、中野さんの著書が「怖い」のは、ここなのだ。
(らいむすたーうたまる ラッパー/ラジオパーソナリティ)