書評

2024年9月号掲載

大勢の他人とつながるために

五木寛之『こころは今日も旅をする』

南陀楼綾繁

対象書籍名:『こころは今日も旅をする』
対象著者:五木寛之
対象書籍ISBN:978-4-10-301727-1

 五木寛之は「時代」と「普遍」を同時に追い求める作家である。
 現在刊行中の『五木寛之セレクション』(東京書籍)を読みながら、そう感じた。
 膨大な作品の中から、「国際ミステリー集」「音楽小説名作集」「サスペンス小説集」などテーマに沿って選ばれており、ストーリーテラーとしての五木寛之を存分に味わえる。
 昔からの読者はその面白さを再発見するだろうし、初めて読む人には時を超えた衝撃をもたらすはずだ。
 1960~1970年代に書かれた作品には、ヒッピー、ベトナム戦争、公害など当時のトピックが巧みに取り込まれている。主人公もカメラマン、テレビディレクターなどとカッコいい。
 一方、長編『風の王国』の原形ともいえる『陽ノ影村の一族』(「サスペンス小説集」に収録)は、新しい勢力によって古代から守られてきた共同体が滅んでいく様を描く伝奇小説だ。
「時代」と「普遍」という二つの側面は、五木さんのエッセイにも読み取れる。
 本書『こころは今日も旅をする』は、『こころの散歩』(新潮文庫)などと同じく、「週刊新潮」の名物連載「生き抜くヒント!」から生まれたエッセイ集。
 その『こころの散歩』では、新型コロナ禍の影響でそれまでの夜型から昼型の生活に移行したことを、前向きの変化としてとらえていた。
 しかし、九十一歳になった五木さんは、早寝早起きをやめて、再びかつての自由な生活に戻ろうとするのだ。
「規則正しく暮らして、規則正しくボケるのはいやだ。そうだ、変化こそ生きるエネルギーではないか」
 いや、ちょっと早くない? それだけでは飽き足らず、「ギア・チェンジ」と称し、頭を丸坊主にしている。
「心を変えるのはむずかしい。まず、形を変える。暮らし方を変える。いくつになっても、人間は変ることができるのだ、と自分に言いきかせながら」
 クレイジーケンバンドのライブを観る、チャットGPTを面白がるなど、新しいものへの好奇心を失わないのも、若くいられる理由だろう。
 その一方で、この歳になっても、エレベーターのドアが自動的に閉まるのを待てないでいる。「人格は変るが、性格は変らない」のだ。
 五木さんは、「学び直し」を意味する「リスキリング」や「アンラーン」という言葉が注目されるのは、時代に敏感であることを求められているからと分析する。
 それでも、これまでやってきたことを捨てず、「反時代的に生きる道はある」と思う。
 また、「アンコンシャス・バイアス」(無意識の思い込み)という言葉についても考える。
「私たちは意識のとどかないような体の奥に、おそろしく古い迷信めいた想念をかかえこんでいる。(略)私たち旧世代人においては、それが苔のようにこびりついていて離れない」
 それをぬぐい去るのが難しい例として、シベリアに抑留された旧日本軍兵士が、洗脳に近い民主運動教育を受けたことを挙げる。その悲劇を描いた短編が、「夜の斧」(『五木寛之セレクションI 国際ミステリー集』に収録)である。
 本書では、ほかに長年出演しつづけているラジオへの思い、放送作家としてコントを書いていた頃の思い出、「五木ひろし」という芸名が生まれた経緯など、興味深いエピソードが語られている。
 女子大生に「なんで書くんですか」と質問された五木さんは、少年の頃に過ごした朝鮮で見た光景を語る。
 道ばたで、辻講釈師の老人が絵図を指し示しながら語るのを聞いて、老若男女がさまざまな反応を示す。それを見た五木さんは、「大人になったら、この老人みたいな仕事がしたい」と思う。
 同様のエピソードを綴った『人間へのラブ・コール』というエッセイ(「波」1971年7・8月号、『風の幻郷へ 全エッセイ・ベストセレクション』〈東京書籍〉に収録)では、「なぜ書くのか」という問いへのもうひとつの答えとして、「他の人間たちと共生したい」からだと語っている。
 つまり、「物語という仮構の橋によって大勢の他人とつながりたい」というのが、作家としての原動力なのだ。
 本書のまえがきで、五木さんは、自らのエッセイを「雑文」と呼び、「日々の世相への実感をいやおうなしに反映している手の文章ばかりだ」と書く。
「しかし、私はこの手の雑文をひそかに偏愛しているところがあって、なんとなく口笛でも吹きながら書き続けている感じなのだ」
 五木さんが楽しみながら書くエッセイは、読者への手紙でもある。「時代」と「普遍」をあわせ持つ文章に、私たちは笑ったり励まされたりするのだ。

(なんだろう・あやしげ ライター/編集者)

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