書評

2024年9月号掲載

平穏な日々はいかにして大虐殺の日々になったか

ヘンリー・オースター、デクスター・フォード『アウシュヴィッツの小さな厩番』

頭木弘樹

対象書籍名:『アウシュヴィッツの小さな厩番』
対象著者:ヘンリー・オースター、デクスター・フォード/大沢章子 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507431-9

 第二次世界大戦中にナチスドイツがユダヤ人の大虐殺を行ったことは知っている。その前には平穏な暮らしがあったろうことも知っている。しかし、平穏な暮らしから大虐殺へと、どのように変化していったのか、その詳細はいまだにわからないところがある。今の私たちが知りたいのは、まさにそこではないだろうか。
 本書ではその詳細が当時まだ小学生だったユダヤ人の子どもの視点から語られる。子どもでは社会のことはよくわからなかったのでは? と思ったのだが、そうではなかった。子どもだからこそ、日常がどのように変容していったかを、具体的に自分事としてとらえている。社会全体の変化を概観した説明よりも、個人、それも子どもの身に何が起こったかという説明のほうが、はるかにわかりやすかった。
 小学校にはじめて登校した日に、ユダヤ人の子どもたちは、ヒトラー・ユーゲント(ナチ党の青少年組織)とその下部組織、ドイツ少国民団とドイツ少女団の集団に襲撃される。それが変化に気づいた最初だった。そんなことがあったにもかかわらず、ラジオから流れてくるヒトラーの演説を聞いて、「すっかり魅了された」「その甲高い叫び声に身体がゾクゾクした」という。ヒトラーの演説には、ユダヤ人の子どもさえも魅了する力があったのだ。
 同じことがくり返されるはずの日常の堅固さが、どのようにして崩れていき、自宅が襲撃されるような非日常が、いかにして日常とすり替わっていくのか。ゆっくりと始まったのに、たちまち加速度がつき、そうなるともう止めようがないという不思議さ。そうした、知識としてはわかったような気になっていたことが、子どもの実感として伝わってくる。とにかく、本書のわかりやすさには驚いた。語り手が少年であるせいか、まるでヤングアダルトの名作を読んでいるかのようだった。原文も、そして翻訳も見事なのだろう。つらい内容なのだが、その語り口にひきつけられて、先を読まずにいられなかった。
 裕福だった語り手の一家は、ある日突然、銀行口座を凍結され、何代にもわたってやってきた仕事を奪われ、家を所有することも許されなくなる。父親は強制労働をさせられ、さらに一家でポーランドのゲットー(ユダヤ人の強制居住区域)に追放される。ここで父を亡くす。母と少年は、ビルケナウ(アウシュヴィッツ第二収容所)へと送られる。ここで母と別れ別れになる。語り手の少年は、ついにひとりになるのだ。このとき15歳。ビルケナウで、そしてアウシュヴィッツ第一収容所で、さらにブーヘンヴァルト強制収容所で、生き延びるための苛酷な日々がつづく。
 こういう本を出せたわけで、少年は生き延びることができたのだが、それはもう本当に奇蹟の連続と言っていい。「運に恵まれた」と彼自身も書いている。しかしそれはナチスの強制収容所に収監されるという、とてつもない不運のなかでのことだ。連合軍によってようやく解放されたとき、もちろん狂喜する囚人たちもたくさんいたが、彼は「未来は本当にあるのかもしれないという事実をようやく受け入れはじめた頃、自分が想像していたほど幸せではないことに気づいた。/わたしは怖かった」という。こういう実感は、当人が語ってくれないと、とても想像がつかない。解放時、アメリカ陸軍の黒人兵たちと、ユダヤ人の囚人たちのあいだに芽生えた親近感と共感というエピソードも印象深かった。
 戻るところのない彼は、イスラエル建国のためにパレスチナに行くユダヤ人たちの一員となる予定だった。そのときすでに彼は自分の行き先を「もう一つの長い戦闘の地となるかもしれない土地」と感じている。だから、アメリカに行けることになったとき、とても喜んでいる。
 アメリカに行ってからは、幸せな日々の話になるのだろうと思っていたら、大学受験で思いがけないことが起きる。フィクションなら作り過ぎと言われそうなことが現実に起きるのだから、運命の巡り合わせというものに驚かされる。
 じつは私は悲惨な話を読むのはつらくて苦手なのだが、この本は読んでよかったと思っている。読まなければならない本だし、ここまでわかりやすく書いてあるのはすごいことだと思う。これが最初は自費出版だったというのだから信じられないことだ。使い古された言葉ではあるが、本気をこめて、ぜひこう言いたい。「ひとりでも多くの人にこの本を読んでほしい」と。

(かしらぎ・ひろき 文学紹介者)

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