書評

2024年9月号掲載

蘭画研究者には到底思いつかない

諸田玲子『岩に牡丹』

山本丈志

対象書籍名:『岩に牡丹』
対象著者:諸田玲子
対象書籍ISBN:978-4-10-423518-6

 先年、諸田玲子氏が秋田蘭画に関わる小説を執筆するということで、調査のため秋田県内の美術館、博物館、歴史家、美術史家を訪ねた。秋田蘭画は18世紀後半、秋田藩士小田野直武が鉱山開発のため秋田を訪れた平賀源内から阿蘭陀オランダ(西洋絵画)の遠近法と陰影法を学び創始した和洋折衷の洋風画である。源内を通じ杉田玄白らが刊行した『解体新書』の挿画も担当し、直武は当時として最も写実性の高い画法を獲得した。やがて直武から藩主佐竹義敦、角館所預佐竹義躬など秋田藩の武士たちへ画法が伝えられて一派を成し、後世「秋田蘭画」と称せられる。
 平賀源内の変死に始まり、源内のパトロンである老中田沼意次の失脚、田沼のライバル松平定信の台頭、蘭学関係者への取り締まりが厳しくなる異学の禁など、時代の趨勢が小田野直武の謎の死と秋田蘭画の衰退を招いたと言われて久しい。直武の制作期間が数年しかないにもかかわらず、江戸絵画の中で異彩を放つ秋田蘭画は未だ解決を見ない多くの謎に包まれており、高い芸術性とミステリアスな背景が研究者や創作者の関心を集めてきた。
 学芸員として蘭画研究に手を染めている私にもレクチャーの依頼があり、角館の平福記念美術館のギャラリーで、諸田氏に小田野直武の代表作「不忍池図」のモチーフについて拙論を披露した。本草学や方位の解釈から画中に四季の植物と東西南北の符丁を見出し四季絵であると分析した上で、西洋美術の画法を摂取していても伝統絵画が描かれてきた意味を踏襲した、健康長寿を願う吉祥画であることを示した。未熟な解説にも諸田氏は真摯に耳を傾け、様々に質問を返された。どうやら研究者である私より諸田氏の方が秋田蘭画をはじめ美術史、秋田藩史など幅広く分野を横断して深くリサーチされていたようにも思えた。
 連載が始まり、歴史小説「岩に牡丹」のタイトルには正直驚かされた。苔むす岩の不滅性と花の王、富貴の象徴である牡丹を写すのは画派を越える普遍的な吉祥画題であり、秋田蘭画や小田野直武の業績をシンボライズするものではない。蘭画研究者では到底思いつかない意表を突いたものであり、つまりそこには諸田氏の意図があるはずだ。
 本編は第8代秋田藩主佐竹義敦(次郎)、分家筋筆頭の佐竹北家当主佐竹義躬(又四郎)と下級藩士の部屋住みである小田野直武(武助)との秋田蘭画を通した交流を追っている。各章には三人が描いた絵の題名が配され、物語の推移と登場する彼らの心情を象徴的に表している。登場する絵について深い理解が感じられる諸田氏の記述には舌を巻いた。
 美術史家の論考は蘭画の誕生から衰退に向かう一元的なストーリーしか想像できていない。しかし諸田氏は蘭画誕生の十数年前秋田藩で起こった銀札騒動を掘り起こし、若き藩主佐竹義敦を、藩内に燻ぶる禍根に苛まれ、ストレスとコンプレックスを抱えるリアルな人間として描き出している。こうしてみると義敦、義躬、直武の三人をそれぞれが描いた「岩に牡丹」の絵に映し、創始者直武を特別扱いするのではなく、立場が違う同世代の若者を通して、当時の時代観、武士たちの生きざまをあぶりだしているのかも知れない。
 かつて秋田蘭画のエピソードを映画化するという話があった。直武を主人公にした小説も何冊か刊行され、秋田蘭画をモチーフにしたミュージカルもつくられた。時代考証のため史料解説をした私には完成したストーリーがあまりに荒唐無稽でただただ苦笑いするしかなかった。
 秋田蘭画に関する史料は決して多くない。改竄や隠滅・隠蔽された可能性もある。先達の論考により定説となっていても、数少ない史料の合間を研究者独自の歴史観や文献の解釈、美意識による想像を繋ぎ合わせた仮説でしかない。創作者が想像を膨らませて書くのはもちろん自由だが、当時の社会情勢を鑑みれば秋田蘭画を取り巻く史実自体がドラマティックであり、過ぎた演出は不要ではないかと私は常々思っていた。
 綿密な資料調査があって構成された「岩に牡丹」のストーリーは切れの良いカットアウトで重畳するエピソードが展開される。これまでにない臨場感と重厚感はリアリティに通じる。特に終盤、小田野直武と同じく「緩怠之勤方」で遠慮を申し付けられた藩士の小貫竜栄が角館の直武を訪ねる場面に私は身震いした。諸田氏が複雑に絡み合う歴史の糸を手繰り、たどり着いた直武の死の場面である。日常がぷっつりと切れる感覚は衝撃的で、武家屋敷内の凜とした光景とともに私の脳裏に焼き付いた。
 小説は史実ではないとわかってはいる。しかし深い洞察力があれば真実に近づいていく。歴史小説「岩に牡丹」は時代の闇に埋もれた秋田蘭画に新たな輝きを与え、山積みされた疑問を解く一つの道筋を示してくれたのである。

(やまもと・たけし 美術史家)

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