書評

2024年9月号掲載

あのとき果たせなかった「愛」が積もる

中江有里『愛するということは』

桜木紫乃

対象書籍名:『愛するということは』
対象著者:中江有里
対象書籍ISBN:978-4-10-352212-6

 仕事場に一幅の掛け軸を下げた。
 全紙を軸装すると畳一畳ぶんの大きさになる。
「一點」と書かれた軸は、余白が本来の作品ではと思うほどに潔い。「一點」――非常に少ないこと、希少なこととあるが、この軸をひと目見たときに思い浮かんだ意味は「たったひとつ」だった。
 焦がれ焦がれて手に入れた。雑然とした仕事場の、やっと作った壁に落ち着いてもらい、朝夕しみじみと眺める日々が続いている。
 毎日祈るように見つめる「一點」の二文字。なにも足せず、引くこともできない透明な世界がそこにある。
 白でも黒でも色があれば別の色を重ねてゆける。しかし透明はそうはいかない。いつまで色を与えても向こう側が透ける。頑固なまでの自我、そして潔さである。
 中江有里氏の長編『愛するということは』を読み終えたとき、この掛け軸に感じ続けた「透明さ」がいっそうはっきりと胸に落ちてきた。
 物語のまん中に据えられるのは母と娘の半生なのだが、このふたりには逃れられないわだかまりがある。
 母ひとり子ひとり、その関係はいつの世も薄い氷の上を歩くように危うい。加えて母には傷害の前科がある。
 不実な男の暴力と暴言、傷ついた体と心。耐えられず犯した若い時分の罪は、女の人生を早いうちから食べ尽くそうとする。自身の人生の一大事に、申し開きもせず争う気力も起きなかった里美の魂は空虚だ。
 里美の人生は、自分を手に入れ損ねた若いうちから、薄闇を養分のごとく流れ始めた。母親、父親、弟。血縁に疎まれながら世の中を流れているところへ、やっと守りたいものが現れた。それが、汐里だった。
 里美の人生は幼い汐里を中心に回ろうとするが、その生活は決して裕福ではなく、あまりの困窮にご祝儀泥棒をはたらいてしまう。
 まっとうを夢見て、傷だらけの女は弱々しい足取りで立ち上がり、転び、再び立ち上がる。ひとり生きるだけでも手いっぱいなところへ、子どもはどんどん大きくなる。大人の言動に疑問を持てば、嘘をつくことを覚える。
 子育ては山と谷、喜びと傷の繰り返しだ。
 ふたりきりで生きているようで、しかしふたりを生きるためにこの母と娘はさまざまなひとに出会う。その出会いに、己のかたちを確かめながら歩く。
 生きてゆくということは、あらゆる困難から生じる心のありようと見つめ合い、ひとつひとつ克服するということだ。どんな時代に生まれても、己を知るのは苦しい。
 里美と汐里は、お互いを欲したり疎ましがったり、血縁の濃さ薄さを問うたり問われたりという半生の中で、ときおりさびしい選択を強いられる。大切なひとと離れて暮らすには、いま納得できる理由が必要だろう。
「愛するということは」――己を真っ二つに割るくらいに、すさまじいタイトルだ。
 第十一章まですべての章タイトルに「~とは」の語尾がつく。
「夢見ることは」「心とは」「本当と嘘とは」「母親とは」「娘とは」「子どもとは」「家族とは」「独りということは」「罪とは」「幸せとは」「永遠ということは」。
 簡単に答えを出せるような問いではない。問われたら困ることばかりが並ぶ目次だ。誰もが怯む難問を、著者が時間をかけて解く過程が、小説として立ち上がる。
 著者はいかにしてこの難問と闘ったのか、しばし考えた。
 全編三人称、複数の視点が「自分の問題」と逃げずに対峙していた。客観性を維持しながら空間を作り、問いがそのまま答えになっているという妙味。
 読者は何色にも染めがたい透明な文体にたゆたいながら、いつの間にか「愛するということ」について自分なりの答えを探し求めるだろう。
 小説は、人生の予習であり復習でもある。
 作中の今を生きているひとの内側と外側を感じ取りながら、「あの日の反省」をしたり「この先のもしかすると」を想像する。
 読み進むごとに、あのとき果たせなかった「愛」が積もる。家族であれ他人であれ、人と人の間には適正な距離が必要だ。その距離は、ひとつとして同じものがない。
 読書は、小説家が持つ方程式をひとつ知るという作業だ。まぎれもない、これは中江有里氏が描き出し、あぶり出した「一點」である。
 著者の筆からにじみ出る涙の手触りを感じながら、その感触を一行ずつじっくりと体に取り込んだ。

(さくらぎ・しの 作家)

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