対談・鼎談

2024年9月号掲載

『百年の孤独』文庫版大ヒット記念

ツッコミなき『百年の孤独』を読み解く方法

長瀬 海(書評家) × 小川 哲(小説家)

▼積読も挫折も読書だ
▼最初から最後まで読まなくてもいい
▼著者は全力でボケ倒している
▼世界が『百年の孤独』化している?

対象書籍名:『百年の孤独』
対象著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス/鼓 直 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-205212-9

長瀬 コロンビア出身のノーベル文学賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの代表作『百年の孤独』がこの夏、文庫化されました。小川さんが作家として強く影響を受けた作品ですよね。

小川 そうですね。でもね、よく考えてみると不思議な話なんですよ。『百年の孤独』は単行本としては書店にずっとあったわけだから。それがこんなに売れる世界が到来するとは思いませんでした。コロナの時にみんながカミュの『ペスト』を読んだ時の感じに近いんですが、この作品が今こんなに売れているというのは本当に不思議なんです。

長瀬 たしかに。でも新潮社はよくここまで耐えて文庫化しなかったなという感じもしていて――。

小川 何があったのかわかりませんが、ついに……という感じはありますよね。今回の文庫版には筒井康隆さんが巻末に解説を寄稿しているんですが、最後にとんでもない卓袱台返しをしていて筒井さんらしいんですよ。新潮社は『百年の孤独』Tシャツまで作ったみたいですが、なかなか商魂たくましい(笑)。どういった形であれ作品を手に取る人が増える機会につながるのであれば、いいことだと思いますが。

長瀬 ソーシャルメディアを見ていると、読むのに苦労しているという声をちらほら見かけます。

小川 ぼくも海外の土地を舞台にした小説をよく書くので、登場人物の名前が覚えられなくて困ると言われたりしますが、この作品にいたっては親子二代、三代で同じ名前の人物が登場するので、面食らう人は多いでしょうね。書いた張本人はおそらく楽しみながらやっていると思いますけれど。

長瀬 ぼくは積読も挫折も読書だと思うので、読めなかったからといってがっかりしないでほしい。

ガブリエル・ガルシア=マルケス

『百年の孤独』にはツッコミがない

小川 ぼくが最初に読んだのは二十代前半だったんですよ。お金がなくて文庫ばっかり買っていて、単行本なんてそう簡単に買えなかった頃のことですから、決死の覚悟で買って必死に読みました。もちろん素晴らしかった。でも、その後の再読では、てきとうなところをパッと開いて、「あ、こんなやついたな」とか「これなんだっけ」とか思いながらパラパラと読んできたんですね。それでいいんじゃないのかなと思うんです。気負って最初から最後まで読まなくてもいいように思う。

長瀬 たしかに著者もそれを織り込んだ上で、作品のあちこちに満遍なく企みを埋め込むように書いていますよね。それをマジックリアリズムと呼んだりするわけですが、といってファンタジー的な世界を志向するのではなく、現実を描き尽くしてやるという気概は絶対に手放さない。

小川 そうですね。たとえば「ロード・オブ・ザ・リング」みたいな典型的なファンタジー作品では、登場人物たちが魔法を使ったりホビット族みたいな人たちが出てきます。つまり「リアリティレベル」を現実からかなり離れたところに設定し、読者もそれを理解した上で読み進める。ところが『百年の孤独』は革命勢力と保守勢力の内戦とかバナナ農園での虐殺事件といった、コロンビアで実際に起きたできごとと同じリアリティレベルに、御伽噺みたいなエピソードが大量に置かれる。四年十一カ月と二日間も村に雨が降り続いたり、空から大量の黄色い花が降ってきたり、人間が空に舞い上がって昇天したりね。そして作中人物はそれを不思議なことと感じていない。著者は全力でボケ倒しているのに、作中の人物は「そんなことあるかよ」とツッコミを入れたりしないし、感慨を述べたりしないわけです。そこにツッコミを入れていたら、それはマジックリアリズムではない。

長瀬 小川さんが書かれた、ポル・ポト政権下のカンボジアを舞台にした『ゲームの王国』でいえば、輪ゴムで村人の死を予見する男だとか、土を食べてその声が聞こえるようになる男の話に通じます。

小川 現代を生きるぼくたちは夜道に灯る電灯を見ても、「あぁ電灯だな」としか思いませんが、科学が発達する以前の人間が現代に転生して電灯を見たら、特殊な生物に見えるかもしれない。あるいは神の特別な力の顕現と見るかもしれないですよね。これをどう活かすかだと思うんです。あるリアリティレベルが設定された物語に、ただ別のレベルの奇想を放り込めばそれでマジックリアリズムだという単純な話ではない。『百年の孤独』は二十世紀を生きたコロンビア人であるガルシア=マルケスが祖父の代の十九世紀のコロンビアを舞台にして書いているわけですけれど、過去を舞台にした小説を書く際に注意しないといけないのは、書き手が生きる現代の視点でものを見てしまわないということなんです。限界はあるにせよ、いかにして舞台となる時代の価値をインストールして書けるか。これが小説家の腕の見せどころなんです。

世界は辺境化している?

長瀬 『百年の孤独』を英語で読んだという池澤夏樹さんと、勤めていた新聞社を辞めてまでラテンアメリカの地に留学してしまったという星野智幸さんの雑誌「新潮」での対話で、「マジックリアリズムが可能になるには辺境、周縁である必要がある」という話が出たのが印象的だったんです。マジックリアリズムは辺境を描くことによって歴史の暗部を浮かび上がらせるためのツールにもなるのかもしれません。小川さんがカンボジアや、あるいは直木賞受賞作の『地図と拳』で満州を描くのにマジックリアリズムが必要になったことと通じる話だと思います。そういえば小川さんは大学院で中上健次の研究をしていたと思うんですが、彼はガルシア=マルケスの影響を受けていると思いますか。

小川 ぼくがガルシア=マルケスから受け取ったものとはまた別の何かだという気はしますが、とても影響されていると思いますよ。ガルシア=マルケスは幼少期を祖父母に育てられたんですが、その祖母から聞かされた話が『百年の孤独』の語り口のベースになっています。中上作品のナラティブにも土地特有の、民話のような響きが流れていますよね。

長瀬 ガルシア=マルケス自身はウィリアム・フォークナーが描いたアメリカ南部の架空の都市ヨクナパトーファを重要なトポスとして描いた作品群から大きなものを受け取って『百年の孤独』を書いたとされています。そして『百年の孤独』からの影響で中上は「路地」を舞台にした『千年の愉楽』を書き、小川さんは満州を舞台にした『地図と拳』を書いた。ぼくはそういう絵を見ています。

小川 そうですね。ぼくの場合は、正確にいえば満州を描こうと思った時にどういう書き方がありえるのか、しかも多くの人に読んでもらえる普遍性を獲得するためにはどうすべきかを考えて、『百年の孤独』のやりかたが浮かび上がってきたという感じです。何せ世界で五千万人が読んだわけですから、後進の小説家としては心強いですよね。

長瀬 独裁者があちこちで戦争をはじめている今、この文庫化は後世からみれば世界が「ガルシア=マルケス化」しているタイミングだったということになるのかなと感じています。

(右)新潮文庫版(左)1967年にアルゼンチンで出版された原書

(右)新潮文庫版
(左)1967年にアルゼンチンで出版された原書

現代人にとっての「孤独」とは

長瀬 実は多くの人と同じようにぼくもはじめはこの作品が読めなかったんです。エキゾチシズム的に消費することへの抵抗感もあったし、日本文学を中心に読んできた自分と関係があるようにも思えなかった。ところが2010年代になってアジア出身の作家がマジックリアリズム的に書いた作品が精力的に翻訳されるようになって、見え方が変わったんですね。彼らはマジックリアリズムを歴史の暗部を描くための普遍的なツールとして使っていて、われわれ日本人にも関係のある書き方だと思えるようになった。

小川 閻連科や莫言のように近代化以前の中国を描こうとする作家もガルシア=マルケスの影響下にあるといっていいでしょうね。

長瀬 亡命イラン人作家のショクーフェ・アーザルの『スモモの木の啓示』などもその系譜にあると思います。それから一族全体の母のような存在であるウルスラ・イグアランが「時間がひと回りして、始めに戻ったような気がするよ」と言いますよね。『百年の孤独』の根幹には、循環する時間、循環する歴史というものもあると思うんです。それもまた現代のわれわれに訴えるところがある理由ではないでしょうか。二十世紀に人類は世界中のあちこちで戦争を起こしたわけですが、理性というものによって同じ誤りをしないはずの人類が、相変わらず独裁者を生み続け、ジェノサイドもなくなる気配がありません。この呆れるような状況は『百年の孤独』の読み味に似ていると思うんです。

小川 戦争というものは、国と国の間で見えている世界が決定的に異なってしまった結果として起こるものですよね。

長瀬 そうなんです。そういったズレを描く、見つめるというのは小説家の責務なのかもしれません。

小川 当たり前のことですが、ぼくら二十一世紀を生きる人間と百年前を生きる人間は認識や価値の基盤が異なります。ですが同時代を生きる人間同士の間にも、百年前の人間との間ほどではないにせよ、ちがいは当然ある。人が何らかの病気にかかって亡くなったことを、科学を信じる人間は病死だと考えますが、呪い殺されたんだと信じて疑わない人もいます。呪いや陰謀というものが当然のように存在する世界を生きている人や集団は、過去にも、この現代にもいます。そして人間はそう簡単に自分の持っている思考の枠組みから逃れられない。だからマジックリアリズムと呼ぶか呼ばないかは別にしても、現代社会を描く上で、そういう書き方は価値を失わないですよね。

長瀬 ぼくのような頭が固い人間は、理不尽さに対してすぐ怒るんですが、小川さんの作品にはそんな思考の柔軟さが表れていると思うんです。荒唐無稽なものや人に対していったん価値判断を留保して観察していますよね。

小川 それは自分と価値観が異なる人を愚かと決めつけてしまうのがもったいないと思うからですね。この人の世界というのはどうなっているんだろうと思うんです。そこから物語が立ちあがってくるかもしれない。人間がとんでもなくちがう世界を生きているということがソーシャルメディアによって可視化されました。現代のこの社会を同じ価値観で生きていると思い込んでいる人間同士でも、実は決して交わらない世界を生きているのかもしれません。

長瀬 なるほど。この作品には満たされない愛情、報いのない愛情がたくさん出てきます。みな孤独です。

小川 『百年の孤独』が読み通せれば、社会をともに生きる人との摩擦をマジックリアリズムとして楽しめるかもしれませんよね。わあ、来た来た、これマコンドだ、みたいな(笑)。自由に読んで色々な楽しみ方をしたらいいんじゃないかと思います。

※この対談は2024年7月28日と8月4日にTOKYO FM「Street Fiction by SATOSHI OGAWA」で放送された番組の活字バージョンです。オーディオコンテンツプラットフォーム「AuDee」でもお楽しみいただけます。URLはこちらです。

(ながせ・かい 書評家)
(おがわ・さとし 小説家)

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