書評

2024年9月号掲載

特集|新潮クレスト・ブックス フェア

あきらめの音

クオ・チャンシェン『ピアノを尋ねて』

東山彰良

対象書籍名:『ピアノを尋ねて』
対象著者:クオ・チャンシェン/倉本知明 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590196-7

 ピアノの調律師が主人公ということで、真っ先に宮下奈都氏の『羊と鋼の森』を思い浮かべた。たぶん調律という仕事をつうじて主人公の青年が真っ直ぐ成長していくような、そんなきらきらしたお仕事小説に違いないと。台湾が舞台ということでも、いくつかの先入観に囚われた。ノスタルジー、人情、自己陶酔型の絆。
 読み始めてすぐ、そんなものはまったくの見当違いだとわかった。台湾が舞台なのはただたんに著者が台湾人で、それ以上の意味はない。主人公は自分が信じた道を邁進する若者などではなく、頭の禿げあがった、うだつの上がらない中年男だ。仕事をつうじて成長するには、彼の自我はすでに確立されすぎている。彼は繊細で内省的ではあるけれど、人並みの卑劣さも持ち合わせている。調律の天才だというわけでもない。若いころは「天才音楽家」と自任していたものの、いまは調律師としてくすぶっているだけのちっぽけな存在だ。ピアノを「羊と鋼の森」と呼ぶような感性とは無縁で、「一台の機械に過ぎない」「そこには、何ら深い原理は存在しない」と喝破するような、ようするにあなたや私と何ら変わるところのない凡人なのだ。もちろん、過ちや後悔とも無縁ではない。物語は、若かりし日の彼の後悔が刻印された一台のピアノをめぐって展開される。その後悔が彼をニューヨークへと導くのだが……
 なんともポリフォニックな中篇作品だった。主軸としてはひとりの調律師が自分の過去と向き合うという、ただそれだけの物語だと言える。しかしそこに到るまでに、いくつもの主題が多声的に立ち現われては消え、互いに角逐してはせめぎ合い、やがて「機械に過ぎない」はずのピアノに同情を寄せるまでに主人公の魂を修復していく。次々に提起される魂と肉体、形式と自由、美と醜といった抽象的な二元論的主題を、著者はクラシック音楽界の巨匠たちの人生になぞらえて読者の眼前に並べて見せる。リヒテルとグールドの対比が好例だ。レコーディングを拒み、コンサートを開くことにこだわったリヒテル。逆に、最もよい音楽とはレコーディングされたものであり、ゆえにコンサート嫌いだったグールド。活きた音にこだわるリヒテルの音楽を生の象徴と見なすなら、グールドの音楽は必然的に死ということになる。味わい深いのは、すでに歴史が証明しているように、たとえ死と定義されようとも、そこには生の音楽と同等の普遍性が宿るということだ。両巨匠の音楽はまったく同じように私たちの胸を打つ。
 つまり、こういうことだ。生と死が不即不離ならば、魂と肉体、形式と自由、美と醜もまた同じなのではないか。著者のそんな眼差しが孤独な調律師を救う。そのしなやかな筆致は、目に見える表層の理由と、その裏に隠された本当の理由が、さながら白鍵と黒鍵のように分かち難いことに気づかせてくれる。「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」と言ったのはニーチェだが、けっきょくのところ人生にまつわるすべての問題は、純然たる主観の問題にすぎない。正答がないのだから、どうあっても間違いではない。
 それでも、後悔はつきまとう。人間の魂はつねに完璧を志向するが、肉体という軛によって後悔は避け難く生まれ落ちる。魂の領域に属する芸術は美しいけれど、だからと言って血肉を持つ芸術家まで美しいとはかぎらない。ちびで醜く、ツキにも見放されていた楽聖シューベルトの生涯に調律師は同情を寄せつつ、それでも彼には音楽があったことに慰めを見出す。そのうえで、返す刀でこう問いかけるのだ――しかし、音楽があればそれで十分だったのか?
 もちろん、十分ではない。だけど、天与のものに対して私たちになにができるだろう。シューベルトにしてみれば、音楽があるだけまだましと諦めて、とっとと前へ進むしかないではないか。陰と陽が不可分であるように、良いことも悪いこともすべてはつながっている。その連環を受け入れないかぎり、私たちの調律は狂い始める。巨匠たちに導かれて調律師が最後にたどり着く諦観の沃野は、こんなにも豊かでやさしい。読者が目の当たりにするのは、彼の内部でようやく音階が調う瞬間だ。その静かな共鳴は、諦めを知る者の耳にきっと届く。後悔が同情に昇華する瞬間でもある。

(ひがしやま・あきら 小説家)

最新の書評

ページの先頭へ