書評

2024年9月号掲載

今月の新潮文庫

端正な姿に隠されていたこと

幸田 文『雀の手帖』

下重暁子

対象書籍名:『雀の手帖』
対象著者:幸田文
対象書籍ISBN:978-4-10-111613-6

 NHKが、まだ千代田区内幸町にあった頃の話である。私はアナウンサーとして働き、二年の名古屋勤務を終えて東京にもどり、石造りの表玄関ではなく、受付の女性が居ていつも人の行き交う内玄関で、ついぞ見かけたことのない素敵な女性とすれちがったのである。
 さり気なく着こなした着物は茶と薄ねずの子持ち格子、いわゆる幸田格子と知ったのはずっと後の事であるが、けていきたいと思った。偶然にもそれが、その日私がインタビューする相手の幸田さんだった。ラジオのスタジオにその姿を見つけた時の驚き――。
 それから仕事で、三、四度お目にかかっただろうか。いつも変わらぬその端正なたたずまいに魅了され、放送局に勤めていた時、いやひそかに物を書きたいという願いに近付いてからも、憧れは増すばかり、そのひとをもっと知りたいと、書かれたものを読み漁った。『雀の手帖』もその中の一冊だった。
 冒頭の「初日」、“はじめての欄へ書こうとするときは、多少なりといつもよりも見よくしたいという気がはたらくので、鉛筆の先へいろけが寄り集まったようになって、まことに困るのである。このよくしたさから転じて生じてくるいろけなどは、書くという本家本元のことにとって、まったく有害無益な邪魔ものである。いろけがちらちらしていたのでは鉛筆は動かない”。
 あ、この人にはいいかげんな言葉など通じない。私はあわてて考えていたインタビューの言葉を捨てて素手で向うしかないと決めていた。
 幼くして母を亡くした幸田さんは、父幸田露伴から台所の教えを学んだ。台所に立てば台所が人を磨いてくれる。日々の暮らしをおろそかにせず、細やかな心づかいを大切に、幸田さんの立居振舞い、江戸弁の匂いのする言葉の一つ一つは、私にとって新鮮だった。「家の中で唯一、火と水と刃物がそろう台所では気をひきしめよ」と露伴に仕込まれて、父の死を師と重ねて受取めた作品ともいえる幸田文という女性が、個としては何を望みどう生きたかったのか。自分は次女だから長女のように賢くいい子には生きられないといいながらその端正な姿に隙を見出すのは難しかった。
 小学校の2、3年、敗戦をはさんで結核にかかり、疎開先の旅館の離れに隔離され、まわりから腫れ物のように扱われ、家事など手を出すなというわがままな暮らしが当然で躾はあまり受けなかった我が身と比べて幸田文さんの姿は眩しくもあった。だがそんな中で幸田さん自身が目を留める物は、醜くとも本物の姿であり、決して表面的な美とは程遠かった。
 例えば「川の家具」という生まれ育った近くの隅田川の洪水の描写、泥濁りの急流の中に翻弄されきって流れてくる家具や造作の類。板戸など縦ざまにくるりくるりとひっくり返されながら来る。「……無力に翻弄されているのに、なお形を保って流されて行くのである……」
 怒り狂った川を見たい。私も小学生の頃、近くを流れる大和川が警戒水位ぎりぎりにまで濁流が橋げたを洗っているのを、父母に黙って一人で傘をさして見に行った事がある。流される木材、境のわからぬ河川敷。私だけが見たものに興奮が隠せなかった。
「木の声」「こぶの花」「嫉妬」など、人の見ない物の側面を見る作品は幸田さんしか興味を持たぬものだと思う。とすると、端正な姿の裏には何が隠されているのか。私は作品の中にそれを探したいと少し意地悪な気持でページをめくった。
 そしてようやく納得したのが、一連の“崩れ”への幸田さんの異常な傾倒ぶりであった。特にあの美しい姿の富士山の遠くからは見えない崩れ、なんと幸田さんはその大沢崩れを肉眼に収めて作品を書いていた。
 あの端正な美しさは、片側に大いなる崩れを抱えて、均衡がとれているのだ。恐れおののきながら、崩れから目を離す事が出来ない。
 その崩れとどうつきあい、なだめているのか。端正さの陰に漂うはかなさ。幸田文さんから、私は逃れられないでいる。

(しもじゅう・あきこ エッセイスト)

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