書評

2024年10月号掲載

物語がひらかれる

カーソン・マッカラーズ/村上春樹 訳/山本容子 銅版画『哀しいカフェのバラード』

江國香織

対象書籍名:『哀しいカフェのバラード』
対象著者:カーソン・マッカラーズ/村上春樹 訳/山本容子 銅版画
対象書籍ISBN:978-4-10-507182-0

 小説が絵と共に存在するとき、文字のみの場合とこんなに空気が変るものかと驚く。こわいほど風通しがよくなって、物語が目の前にひらかれる。こんなことしていいの? と思ったのは、これがマッカラーズの小説で、マッカラーズといえばアメリカ南部の閉鎖的な地域社会と、そこに生き、他者からの理解を徹底的に拒む人々を描いた作家だからだ。閉鎖的に構築された小説世界を、言葉の外側にひらいてしまってもいいの?
 いいのだ、と、これを読んで私は納得した。ひらかれるというのはたぶん、通路ができるということなのだろう。その通路から、小説世界そのものが迫ってくる。この小説の持つ閉鎖性もわかりにくさも、閉鎖的なままわかりにくいまま、肌のすぐそばまで迫ってくる。時代の空気や土地の描写の繊細さや、登場人物たちの孤独や悲哀や狂気といった、文章に閉じ込められたあれこれも。こんなことを思いつけるのも実行できるのも、かつてカポーティを美しくひらいたことのある、村上春樹と山本容子だけだろう。
 ひどくうらぶれた町だ。という一文から始まるこの小説の冒頭数頁はすばらしく印象的だ。舞台となる町の様子と、かつてカフェだったというさびれた建物の存在、主要登場人物三人の関係性と謎が、夏の暑さと共に過不足なく提示される。私がこの小説を旧訳で読んだのはもう三十年以上前なのに、簡潔かつ濃密な冒頭数頁を読んだだけで、たちまちその場所と人々、当時の自分の読後感まで思いだした。これは異様なことと言わなくてはならない。物覚えのいい方ではない私は、読んだ本の内容をたいていすぐに忘れてしまうのだから。それだけ強度の高い小説であり、冒頭だということだろう。ほとんど頑迷なまでに。
 新訳による新鮮さ(とくに人々の口調とたべものの描写)をべつにすれば、当然だけれど小説世界はうれしいほど不変だった。が、私は今回、おそるべき女性主人公ミス・アミーリアに、存外あかるくやわらかい部分があることを発見した。新訳のせいなのか絵のせいなのか、単に自分が年をとったせいなのかわからない。でも、あかるくやわらかい部分は、たとえば彼女の造るウィスキーに表れている。「その味は舌には清涼で鋭く感じられるのだが、いったん身体に流し込むと、そのあと長いあいだ内側からじわじわと人を温めてくれる」のみならず、飲んだあと、「これまで見過ごされてきた物事や、暗い心のずっと奥に抱かれていた思い」に気づかされ、「沼地の百合にふと目をとめ」たり、「一月の真夜中の空の冷ややかにして妖しい輝きを生まれて初めて目にし」たりするというのだから素敵だ。そんな彼女の経営するカフェが地元の人たちにとってどんなに特別で居心地のいい場所であったかも、彼女の荒々しい言動や、そこで起る喧嘩騒ぎにばかり気を取られて想像が及んでいなかった。また、誰かに婦人科系の病気を訴えられると「恥ずかしくて声も出なくなった大きな子供のよう」になって手も足もでないというのも、(民間医療を施す人としての是非はともかく)彼女の意外な弱さでありやわらかさだし、大切に思っている男が「嘘と自慢をべらべらと並べ立てた」ときの、「誰かが突っかかってきて、この人の馬鹿な真似を責めたりしたら、ただではおかないよ」という態度には、ほのかに幸福感が透けて見える。ストーリーを追えば不条理で痛々しく、やたらに悲しい話だし、全体の不気味さと暗い野蛮さこそがこの小説のおもしろさでもあるのだけれど、ながい年月を生きるうちには、当然さまざまな瞬間があるのだということがわかる。彼女のみならず彼女の昔の夫にも、遠縁だというふれこみの男にも。
 これは徹頭徹尾、愛をめぐる小説だ。愛の持つ残酷性と不合理性を、マッカラーズは容赦なく書く。驚くべきストレートさで、愛とは何かを考察している。一人の女と二人の男、その三人が三人とも極端に風変りなので一見特殊な愛に思えるが、そうではなく、ここには確かに普遍性がある。つきつめれば、愛はつねに不合理で狂暴でおそろしいのだ。考えてみれば明白なことなのに、認めてしまえば人生の足場を失いそうで、たぶんみんな目をそらしている。それをこんなふうにまっすぐ書いてしまえるマッカラーズは、やっぱりこわくておもしろい。

(えくに・かおり 作家)

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