書評
2024年10月号掲載
馬と人と無と
川村元気『私の馬』
対象書籍名:『私の馬』
対象著者:川村元気
対象書籍ISBN:978-4-10-354282-7
『私の馬』の「私」は、「短大を卒業して造船会社に入社が決まり、工場に配属されて二十五年が経った」。日々、なにもない日常を生きる女性だ。興味を持てない仕事につき、押しつけられた「労働組合の雑務」を淡々とこなしている。アパートの小さな部屋に戻ると、テレビもない部屋でスマホを見ながら、ひとりで食事をする。スマホの中には、無意味な言葉や映像が蠢いている。しつこく結婚を勧めてきた母も、「私」が四十を過ぎると無言になり、やがて介護施設に入った。「母の介護費用と自分の生活費で、家計はいつもぎりぎりだ」った。いや、ぎりぎりなのは家計だけではなかった。「私」はひとりだった。未来も、するべきことも、したいことも、心動かされるものも、なにもなかった。それをひとことで言い表す言葉がある。「孤独」である。「私」は世界の果てで「孤独」のままでいた。そんな或る日、「私」の前に一頭の「黒い馬」が現れた。馬運車から逃げ出し、国道に立っていた。目があった。運命だったのだ。すぐに馬は捕まり、連れてゆかれる。
「幌と荷台のすきまから、あの馬が顔を覗かせた。吸い込まれるような黒い瞳が、再び私に向く。
見つけた。
私が思うより少し先に、馬からそう語りかけられた気がした」
「私」は、その馬が、ある乗馬倶楽部に所属していることを知り、会いに行く。そして、その馬に乗る。乗らなければよかったのだ。そうすれば、先へ行かずにすんだのに。だが、「私」は、その馬に乗り、その馬の瞳を見た。引き返すことはできなかった。「私」は、その馬を買って自分のものとし、馬術大会に出し、優勝を目指すようになる。かつて「競走馬」としては成功できなかったその馬を、乗馬の世界のチャンピオンにするために。それには、金が必要だった。そして、金は労働組合の金庫の中にあったのだ。『私の馬』は、実在の事件をもとに書かれた。現実の事件でも、逮捕された女は、組合の金を使い込み、「馬」に貢ぐ。だが、なぜ? なんのために? 「私」は懸命に言葉を紡ぐ。どんなに深い繋がりが「馬」との間にあったかを、「馬」と「私」の間に生まれた素晴らしい世界のことを。だが、会社の人間は困惑して、こういうしかないのだ。
「説明になってないよ。馬に貢いだなんて話、誰も納得しない」
なぜ「馬」なのか。それは、「馬」(競走馬)には名前があるからだ。いや、「競走馬」は、そのすべてに固有の名前が与えられ、そのすべての個体の名前は一冊の書物(「競走馬血統書」)の中に書きこまれるからだ。そのような生きものは、この地上に、二種類しか存在しない。人間と「馬」(競走馬)である。
近代競馬は18世紀にイギリス貴族によって始められた。彼らが最初に作ったのは「競走馬血統書(ゼネラル・スタッドブック)」だ。そして、そこに名前が記されたものだけが競走馬とされた。なぜ、そんなことをしたのか。自分で働かないイギリス貴族たちにはするべきことがなかった。その代わりに熱中したのが「飲酒」と「狩り」と「読書」だったといわれる。18世紀になって、彼らは四つ目の「やるべきこと」を見つけた。サラブレッド競走である。彼らは、ある生きものの種属全体を丸ごと「管理」しようとした。運命を握ろうとした。馬たちの「名前」を書き込まれた「競走馬血統書」は、もう一つの「聖書」だった。彼らは全能の「神」になろうとした。「神」である彼らにとって、「聖書」の中の「馬」たちは、人間、つまり自分自身の写し絵でもあったのだ。
「私」にとって、その「馬」は、退屈な世界から救い出してくれる唯一の存在だった。イギリスの貴族たちがそうであったように。だが、それは破滅へ続く道でもあった。
最後に、「私」は「馬」の瞳を覗きこむ。そこには「私」は映っていない。いや、映っているのだ。あるかなきかの「私」の姿が。「馬」とは、それによって救済されるために、人が、神に代わって作り上げた「物語」のことだ。それは、別の名前を「無」というのである。
(たかはし・げんいちろう 作家)