書評

2024年10月号掲載

見る者が抱く心象を突きつける写真

安部公房/近藤一弥 編・デザイン『安部公房写真集―PHOTOWORKS BY KOBO ABE―』

ヤマザキマリ

対象書籍名:『安部公房写真集―PHOTOWORKS BY KOBO ABE―』
対象著者:安部公房/近藤一弥 編・デザイン
対象書籍ISBN:978-4-10-300812-5

 四十年ちかくも前の話だが、安部公房の写真作品を留学先であるフィレンツェの美術学校の課題として描いたことがある。日本から送ってもらった刊行直後の『死に急ぐ鯨たち』を手に取り、読み進めていると不意に現れた、ゴミ捨て場に放置されている冷蔵庫の写真を目にした瞬間、「これを絵にしよう」という決意が芽生えた。
 その数週間後に仕上がったのは、廃棄物に覆われた光景の中心に、影のように黒い猫背の男が背中を向けて画面の奥に配置されているという構図以外、使った絵の具も黒と白だけの完全な写真の描き写しだった。教官はそれを見て「暗鬱な絵だな」とひとこと言ったきり、たいした評価はしてくれなかったが、同じアパートの階下に暮らしていたドイツ人の女性哲学者からぜひ譲って欲しいと頼まれ、家賃を払うお金欲しさに二束三文で手放してしまった。あの絵が今はどこにあるのかわからないが、この時から私は安部公房を写真家としても認識するようになったように思う。
 既に『箱男』の文庫本を通じて安部公房が写真を撮る作家であることは知っていた。印画紙に荒い粒子で捉えられた、シャッターを閉じた宝くじ売り場の前に佇む(または直進している)男の後ろ姿や、車椅子に乗った少女と老婆に付き添いの人々。荷物を自転車に積載して移動している路上生活者に、男性便所で一列に並んで用を足す男たち。人間たちがそれぞれ毎日排出しているため息の澱みが沈殿したかのような空気の中で、ダンゴムシのごとく蠢いている輪郭線の曖昧な人々。安部公房は自身の撮影について、意識しないような瞬間の切り取りが何よりも重要だと語っているが、鬱屈した暮らしでつのる怒りや苦悩を、納得のいく作品に昇華することもできないもどかしさと失望感を自分に抱いていた私は、そこが砂であろうと、荒野であろうと、アスファルトであろうと、人間たちが生息している場所に根付く、老廃物や土着の匂いをあらゆる手段で切り取ることのできる安部公房に、強い羨望を覚えたものだった。
 この写真集のゲラを眺めているうちに、当時のあの頃の悶々とした感覚が蘇ってきてなんとも恥ずかしい気持ちになってしまったが、もうひとつ長い年月を隔て感じたのは、それぞれの写真の内側に潜んでいる安部公房作品へのアプローチである。
 写真集の編・デザインを担った近藤一弥氏の解説によると、安部公房が残したネガフィルムは一万カット以上で、撮影量が最も増えていたのは『箱男』と「安部公房スタジオ」立ち上げの頃だという。『箱男』は主人公がカメラマンという設定なので、潜った箱に開けた覗き穴から彼の目が捉えているに違いない光景を、同じ立場を意識して撮り続けたのがこの作品で使われている写真なのだろう。しかし、こうして見ると、特定の作品に紐付ける予定があったわけでもないはずの写真も、彼の文字によって展開される世界観とぴったりベクトルがシンクロしていることに気がつく。『方舟さくら丸』にしろ『砂の女』にしろ、新潮社から刊行される安部公房の文庫本に氏の写真が使われているのを目にするたび、まるでそのために撮り下ろしたと思えるくらいピッタリな写真がよくあったものだと感心していたが、写真だけではなく、EMSシンセサイザーを導入して作ったブライアン・イーノ風の音源も、抽象的なイラストも、トイレットペーパーの芯で作ったオブジェも、彼にとっては文字によるデジタル化以前の、感覚的な要素で耕された土壌のようなものなのかもしれない。最初に文章を作り、そこからことばでは補えない絵を立ち上げていく私の漫画創作とは完全に逆の方法だが、安部公房という人の方向性のぶれなさには本当に感心してしまう。
 それと、もう一点。これはあくまで漫画家である私による極めて私的な見解だが、この写真集を見ていると、不意につげ義春の景色や人々の描写が思い浮かぶことがあった。安部公房もつげ義春も人間社会に打ちひしがれつつも旺盛な好奇心で分析を怠らない表現者である。つげ義春はそれこそ安部公房が嫌う私小説作家の漫画家版とも言えるが、たとえばこの写真集の作品をつげの絵に置き換えてみると全く違和感がない。それはおそらく、安部公房の写真も、つげ義春の漫画も、作家の思想や意図を消失させ、読み手の中に内在する心象を容赦無く突きつける黒と闇の効果を効果的に用いる表現者だからだろう。意外な組み合わせではあるが、自分的には納得のいく解釈なのだった。

(やまざき・まり 漫画家/文筆家/画家)

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