書評
2024年11月号掲載
今月の新潮文庫
恐怖と驚きの合わせ技で攻める短編集
矢樹純『血腐れ』
対象書籍名:『血腐れ』
対象著者:矢樹純
対象書籍ISBN:978-4-10-102382-3
不安が募り、恐怖が襲い、驚きに飲み込まれる。
矢樹純『血腐れ』に収められた短編の特長をまとめるならば、このような表現になるだろうか。本書の収録作はサスペンス、ホラー、ミステリの技法を巧みに掛け合わせることで、短い物語のなかで多様な興趣を堪能させる。つまりは短編娯楽小説として非常に贅沢なものが揃っている、ということだ。
『血腐れ』は『夫の骨』(祥伝社文庫)、『妻は忘れない』(新潮文庫)に続く矢樹のノンシリーズ短編集で、収録された六編はいずれも雑誌「小説新潮」に掲載された作品である。前二作の『夫の骨』と『妻は忘れない』は意外な展開の連続で驚愕させる粒ぞろいの短編集で、優れたミステリ短編の書き手という矢樹の印象を読者の中に確立させた。『夫の骨』の表題作は第七三回日本推理作家協会賞短編部門を受賞している。『血腐れ』もまた矢樹の短編巧者ぶりがうかがえる作品集なのだが、『夫の骨』や『妻は忘れない』と大きく異なる点がある。収録作に恐怖小説の要素が盛り込まれていることだ。
冒頭に収録されている「魂疫」は「小説新潮」2021年8月号の怪談特集に寄せて書かれた短編である。語り手の芳枝は夫を大腸がんで亡くし、何に対しても抗う気力が失せたまま生活を送っていた。夫の一周忌の法要後、酒を飲みながら居座り続ける義理の妹、勝子にも立ち向かう気は湧かず、「帰って欲しい」のひとことが言えないままだった。そのうち勝子が奇妙なことを言い出す。「芳枝さんって、霊とか見える人?」勝子が言うには、芳枝の夫が死んで半年くらいの時、勝子の前に彼が幽霊となって現れたのだという。その後、芳枝の夫の霊は頻繁に現れるようになるが、霊は会うたびに勝子の唇をなぞる不可解な行動を取る、と彼女は言うのだ。
矢樹が書く短編の美点は、物語の随所に予想の付かないような展開を用意し、読者へ宙吊りの感覚をずっと植え付けるところにある。限られた紙幅のなかでサスペンスを醸成させるのが上手いということなのだが、『血腐れ』の収録作では宙吊りの感覚だけではなく、何か不条理なものが侵食してくる恐怖が付け加えられているのだ。「魂疫」でも先ほど書いたような出来事から次々と不可解な光景が読者の前に用意され、意外性に富んだ終幕へと流れていく。
表題作である「血腐れ」は「小説新潮」2022年8月号の「真夏の怪談」特集に掲載された作品だが、同作は本格ミステリ作家クラブが編纂したアンソロジー『本格王2023』(講談社文庫)にも採録されている。『本格王』は本格ミステリ、すなわち手掛かりを基に論理的な推理によって謎を解くタイプの小説で優れたものを選ぶアンソロジーだ。つまり「血腐れ」はホラーとして書かれながら、そこに謎解きミステリとして秀でたものを見出すことが出来る作品になっているのである。どのような点で本格ミステリと見なすことが出来るのか、ということは、もちろん詳しくは書かない。「血腐れ」で矢樹が試みたのは、ミステリが持つ合理性が却って作中で生じた出来事の不条理を際立たせる書き方である。
こうしたホラーが持つ不合理性と、ミステリが持つ合理性の間を行ったり来たりしながら読者を翻弄するのが『血腐れ』という短編集の読みどころである。一つの題材や設定をある場面ではホラーの方向に寄せたり、あるいは逆にミステリの方向に寄せたりと振り子運動のような書き方を繰り返すことで驚きの連続を生むのだ。収録作の中では「爪穢し」が一つの題材に対する鮮やかな切り替えを行っている短編だと感じた。同編では一見、枝葉に思われた部分が重要な意味を持って浮かび上がる瞬間が書かれており、その隙の無さに感心した。
恐怖小説の要素を取り入れることで『夫の骨』や『妻は忘れない』とは異なる味わいを持った短編集になっている、と書いたが、いっぽうで過去のノンシリーズ短編集と共通する点もある。家庭内や親戚関係を題材にした、いわゆる“ドメスティックスリラー”の要素が色濃い作品を多く収録していることだ。家族内あるいはご近所の間で生じるドロドロとした問題や事件をサプライズの連続で読ませる、というのが『夫の骨』や『妻は忘れない』における矢樹短編の特長だった。そこへ更にホラーの要素を絡ませるとどのような読み味になるのか、という挑戦を行ったのが『血腐れ』であると捉えることも可能だろう。親の介護問題と兄弟間の軋轢を描きながら、終幕直前に展開する怒濤の逆転劇で圧倒する「骨煤」がその最たる例だ。サスペンス、謎解き、ホラーとジャンルの技法を自由闊達に交えながら矢樹純は短編巧者の道をまた一歩、着実に進んでいる。『血腐れ』はその証明となる一冊だ。
(わかばやし・ふみ 書評家)