書評
2024年12月号掲載
人生を大きく変える「覚悟」と「即答」
岡野民『あの時のわたし―自分らしい人生に、ほんとうに大切なこと―』
対象書籍名:『あの時のわたし―自分らしい人生に、ほんとうに大切なこと―』
対象著者:岡野民
対象書籍ISBN:978-4-10-355931-3
2006年の10月に「暮しの手帖」の編集長に就任した。その年の暮れだったと思う。よく晴れた日の午後、横山社長とともに、秋山ちえ子さんの自宅に挨拶のためにお伺いした。
ジャーナリストであった秋山さんは、長年「暮しの手帖」のよき理解者の一人で、近年の売上部数の落ち込みを心から心配していた。
秋山さんは、自分が取り組んできたラジオ番組や朗読、執筆活動について静かに話してくれた。そして、若い頃にアメリカを訪れた時、仕事をする女性が颯爽と道を歩く姿を見て、自分も強く生きようと思ったと語ってくれた。
「これからの社会は女性のちからがもっと必要になってきますから、女性が元気になるような雑誌を作ってください。長い人生では幾度となく覚悟をする時がある。いつだって女性は覚悟よ。私にも覚悟の時がありました。大橋さんが作った「暮しの手帖」も同じよね」と、秋山さんはぼくの目をじっと見て言った。
2007年1月25日、ぼくの手掛けた新しい「暮しの手帖」が発売された日の朝、秋山さんから電話があり、「とてもいいと思います。自分を信じて続けてください。ずっと見ていますからね」と励ましてくれた。その時くらい嬉しいことはなかった。新しい号が出るたびに秋山さんは電話をくれた。
そうしておよそ九年間「暮しの手帖」の編集長を務めたが、あの日に聞いた秋山さんの「覚悟」という言葉は、いつだって、苦しい時つらい時の底力になった。ぼくにとって秋山さんは恩人になった。
恩人と呼べる人がもう一人いる。小林恵さんだ。若くして帽子デザイナーとして成功し、1964年、世界一周の旅に出発したが、渡航先のニューヨークで「ここでやってみよう!」と思いつき、旅行を中断。いくつもの出会いが重なりアメリカで一番大きな帽子メーカーに就職し、デザイナーとして頭角を現し、成功を手にする。後に、独立し、ニューヨークに暮らしながら、キルトを中心にアンティーク人形といったフォークアートと、アメリカの暮らしの文化を日本に紹介する活動を始め、晩年に帰国した。
そんな恵さんとの出会いは、ぼくが「暮しの手帖」の編集長に就任してすぐに届いた一通の手紙がきっかけだった。恵さんが企画した「アメリカ人形展」を銀座で開催するのでぜひ見に来てほしいという誘いだった。当時の恵さんは七十歳くらいだったと思う。お会いした恵さんは、とてもエネルギッシュで、互いにニューヨークで暮らしていたアパートが近かったこともあり途端に意気投合し、あっという間に親友のような仲になった。
恵さんから学んだことは数えきれない。恵さん自身が最も大切にしている言葉がある。それは「成功の反対は失敗ではない。何もしなかったということ」。この言葉くらい当時のぼくを支えてくれたものはなかった。そしてもうひとつ、「即答」だ。何事も即刻判断。「チャンスというものは、考えたり悩んだりしているうちに去ってしまうのよ。もしくは誰かに取られてしまう。だからいつでも即答。誰よりも早く即答。即答とは勇気。勇気こそ成功の秘訣」と恵さんはぼくに言った。恵さん自身、それまでの人生を、幾度も「即答」で切り拓いてきた。
恵さんと、月に一度、食事をするのがとても楽しみだった。大抵は西日暮里の自宅で、恵さんの手料理をごちそうになり、互いの夢やこれまでの人生の歩みを夜遅くまで語り合った。
恵さんは、おしゃべりしていると、「あなたが即答した時の話を聞かせて。その時どうだったの?」とよく聞いてきた。そして「人生とはやりたいことをやること。やりたいことをやるためにはやっぱり即答。その時を逃さないために」と恵さんは言った。
「即答」の大切さをぼくは恵さんから学び、「暮しの手帖」の仕事だけでなく、恵さんに倣って、それからの人生を「即答」で切り拓いてきて今がある。
『あの時のわたし―自分らしい人生に、ほんとうに大切なこと―』は、秋山ちえ子さんと小林恵さんという偉大な二人からぼくが学んだ、どんな人にも「あの時」という覚悟や即答があり、その覚悟と即答こそが、人生を大きく動かすことを、「暮しの手帖」の読者と分かち合いたくて始めた連載だった。
そして「とにかく、おもしろくて楽しくて、役に立つ雑誌を作りなさい」と言う秋山さんへの返事であり、「やりたいことをやることを励ます雑誌であるように」と言う恵さんへの返事でもあった。
『あの時のわたし』はその願いを叶えていると信じている。第一線で活躍してきた二十七人の女性の覚悟と即答が描かれている。
(まつうら・やたろう エッセイスト)