書評

2025年1月号掲載

作家の「まこと」、物語の「まこと」とは何か

木内昇『雪夢往来』

村田雅幸

対象書籍名:『雪夢往来』
対象著者:木内昇
対象書籍ISBN:978-4-10-350957-8

 新聞記者になって三十余年。その間、本当にたくさんの方に話を聞かせていただいた。政治家、役人、スポーツ選手、学者、俳優……そして数多の市井の人々。合わせれば、一万人を超えているだろうか。喜びの声を聞く取材も、悲しみの声を拾うインタビューもあったが、その都度、できるだけ相手の心に近づき、寄り添えるよう努めてきたつもりだ。時に共に笑い、怒り、うなだれながら。
 けれど、そうして出会った人の中で、うまく捉え切れない人たちがいた。作家――。東京本社社会部から文化部へ異動した2000年以降、多くの作家に新刊インタビューをしてきたが、彼らが紡いだ小説を挟んでのやり取りでは、その人にきちんと迫れたか、自信を持てないことが度々あった。そもそも小説は虚構であり、そこから書き手の内面を汲み取ることは容易ではないし、登場人物の思いや行動から著者の本音を探ろうとしても、彼らは「書いているうちにキャラクターたちが勝手に動き出すんです」などと口にする。
 作家とは何者か。物語を紡ぐ人間の「まこと」はどこにあるのか。木内昇さんの『雪夢往来』は、本好きなら誰もが抱く疑問に、一つのヒントをくれるように思う。四人の作家、それも実在した人物の心の裡を見事に浮き上がらせているからである。
 四人とは、江戸時代後期の戯作者である山東京伝と、その弟で後に戯作者となる京山、『南総里見八犬伝』の著者として知られる曲亭馬琴に、越後の商人で、地元の風俗や綺談を本にして江戸に伝えたいと願う鈴木牧之(本名・儀三治)。今作は、二十代後半の儀三治が本を出すことを夢見てから、『北越雪譜』として板行され、ベストセラーとなるまでの四十年という歳月を描く。儀三治の原稿は京伝や馬琴らの手に渡り、彼らの仲介で幾度も板行が試みられるが、なかなか実現しない。木内さんは、儀三治の煩悶や焦り、さらには京伝、京山、馬琴の戯作者としての思いや、板行を巡る板元とのやり取りなどを詳らかにしていく。
 そこに描かれた戯作者の立場や心情は、現代の作家たちのそれに通じるものに違いない。板元と京伝の、こんなやり取りからも見て取れる。〈力の籠もった稿となれば、よい書物にはなるかもしれません。しかし、よい書物が売れる書物になるか、というと、どうも勝手が違うようでしてね〉〈馬鹿を言うな。いい書物を、うまく宣伝して売るのが手前らの仕事だろう〉
 馬琴の言葉からは、職業作家の多くが感じているであろうジレンマもうかがえる。〈戯作というのは水ものじゃ。こうして日々真面目に努めておっても、必ず相応の見返りがあるというものでもあるまい〉〈戯作が読まれるのは、世が太平なときに限ってのことなのじゃ。飢饉だの天災だの疫病だのがあれば、誰も戯作になぞ目もくれぬ〉
 ああ、そうだった。東日本大震災が起きた時も、少なくない数の作家が己の物語の力を疑って肩を落とし、中には「小説家は虚業だ」と語る人もいた。
 だが、本当にそうだろうか、とも思う。そうであるならば、どうして彼らは作家であり続け、物語を書き続けるのか。読者はなぜ、新たな物語を待ち続け、読み続けるのか。この作品はそんな問い、言い換えれば、人を惹きつけてやまぬ物語の力とは何か、物語の「虚」と「まこと」の間には何があるのか、というところにまで切り込もうとする。
 作中、印象的な一文がある。〈京伝は、話が甚だしい虚構だったとしても、その奥に人の普遍な業や想いがしかと息づいておれば、それこそがまことになると信じている。ゆえに、一貫した善人も悪人も出さぬ〉。先述の通り、作家の考えが必ずしも登場人物に反映されるわけではないが、これはおそらく、木内さん自身の思いなのだろう。
 木内さんはこれまで、「虚」である小説の中にごく自然に「まこと」や「普遍」を入れ込んできた。異なる時代、立場の人間の物語であっても、深い人物造形と精緻な描写で、今を生きる私たちに「これは自分たちの話だ」と実感させてきた。今作も二百年ほど前を生きた「書き手」たちの物語ではあるが、本を手にした「読み手」はその耳元で、彼らの息づかいまでを聞くことになる。板行の行方に一喜一憂する儀三治。戯れるように物語を生み出す京伝。そんな兄の才能の前に打ちひしがれる京山。一方、馬琴は他のすべてを犠牲にして戯作に挑んでいる。「書き手」だけではない。木内さんの筆は、その周囲にいる人物の姿も鮮明に立ち上がらせる。何にも気付いていないようでいて、多くを悟っている儀三治の妻、兄の背を追う京山を〈追わなくたってよござんす。旦那様には、旦那様にしか行けない道が、きっとある〉と励ます妻……。本から目を上げ周囲を見やれば、そう遠くない場所に彼らと似た人はいる。
 ただ、戯作者たちの晩年の姿にだけは、「自分たちとは違う」と感じるかもしれない。彼らは物語に取り憑かれ、呑み込まれて苦しんでいるのに、どういうわけか、その厄介さを受け入れ、面白がってさえいる。これが作家か。ならば、やはり彼らの存在は謎のままである。

(むらた・まさゆき 読売新聞東京本社編集委員)

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