書評
2025年1月号掲載
最強「知覚小説」の効用とは
小山田浩子『最近』
対象書籍名:『最近』
対象著者:小山田浩子
対象書籍ISBN:978-4-10-333645-7
『最近』はある夫婦の夫・妻それぞれの主観を、というか、生活するさなかで感覚器官から得た情報が生み出すあらゆる思念・想念・感興を、一定期間分あえて「全部書き」してみるスタイルで綴られる連作短篇集だ。読み心地の点でかなり好みは分かれるだろうが、大量情報処理に慣れた読者ならば少なくとも「なるほどこれか!」と何かが刺さるのは間違いない。そういう知的刺激が込められた文体であり文章だ。人間、ある日常的な所作のちょっとした数秒のうちに、これほどの観察と評価と失望と期待のサイクルをこなしているのか。スゴいな。いや、しかしよく考えると誰しも実際こんなものだろう。それを正面からリアルに言語化して書き尽くしてみせたことがスゴいのだ。
内容面で目立つのは、コロナ禍のもとでの日常感覚の描写だ。私は芥川賞・直木賞の時期になると、書評家の杉江松恋さんと候補作についてウェブで対談しているのだが、その際には、東日本大震災は、そしてコロナ禍は「どれほど文芸的に消化されたか」ということが常にお題に上っていた。コロナ禍については昨今、もう充分に文芸化されたと感じていたのだが、いやぁ甘かった。私が見ていたのは、実は「世間で論争となった観点がいかに充分かつ自然にストーリー化・キャラクター化されているか」という点であった。が、この『最近』にてコロナ問題は、生活感覚の上で何よりも「めんどくさい存在」でありまた責任所在のパス合戦のボールのようなモノでもある、という面での本質性が見事に浮き彫りとなっている。「どうあるべきか」「正しいか否か」という問題提起が登場人物の自覚なきまま、さりげなく後景に追いやられ、現象と手続きが鬱陶しく進行する。もちろん「正しさ」をめぐる葛藤が無いわけではないが、その上でシロクロの判定をドラマじみた形で下さない点が素晴らしい。シロクロ併存というわけでもなく、シロクロの間のどこか、家族や友人に対してわかりやすく言語化して説明するのが絶妙に困難な座標に「真に言いたいこと」が挟まってしまう感触が良い。とても良い。
これはリアルだ。そう、これだよ!
自分の予想軌道を超えて鮮やかにゴールを決められたキーパーの気分とはこういうものか、と思わず感嘆してしまう。個人的に残念なのは、著者がすでに芥川賞受賞作家であるため、今後、杉江さんと芥川賞候補作について対談することがあっても、その価値の深みを論じられないことだろうか(笑)。
そして思う。たとえば数百年後の歴史家が「21世紀前半の社会」の空気感やリアリティを知りたいと考えた場合、実はいわゆる史書よりも、本書のようなタイプの小説こそがそのニーズに深く応えるのかもしれない。そう考えると本書、コロナだけではなくパワハラ、ポリコレ、介護、ネットとリアルの相克、などなど登場人物の脳裏を圧迫する社会問題ネタが見かけ以上に多いので、時代の断面をある程度包括的に切り取った感もあってお得だ。小説読みとしてはいささか不純な思考かもしれないが、このような作品の中で生じる「知覚からの思考の連鎖」は、往々にして社会史的観点の鋭い縮図になっているので実に見のがせない。
……だが、そして。
本作にはもうひとつ、異様で面白い側面がある。「車が突っ込んで大破したはずの中華屋の内装に、なぜか修繕の痕が無い」といった、ちょっとした不可解さがしばしば顔をのぞかせる点だ。個々のネタとしてはあまりにも地味で小粒で、オチがあるわけでも何かの伏線になっているわけでもない。登場人物は一瞬そこで、おや?と怪訝に思うのだけど、すぐに元の「現実的な」文脈に取り込まれて忘れてしまう。いわゆる実話怪談系のエピソードとしてはまるで成立しないけど、でもリアル異界体験や超常体験って、実際はこんなもんじゃないのか?という一種のリアリティ表現という気がしなくもない。かくいう私も、某オフィスビル内にて、ある一つのエレベーターが10秒ほどの間隔で2回連続で「下行き」だった(しかも満員)のを見たことがあるのだ。そう、あるんですよああいう体験って。実際には疲労から来る錯覚だろうけど。知覚情報の生成でたまに発生するバグというか。しかし現代は情報あふれ時代だし、そういう瞬間があっても別におかしくもないでしょ……と思ったりする。脳内主観だけじゃなくて、現実に亀裂が入っても。
以上、著者が意図したかどうかは不明ながら、世界の情報構造の綻びまでを取り込もうとした「主観・知覚ベースのリアリティ小説」が本書であり、そのコンセプトのポテンシャルはかなり大きい。今後、フォロワーがどのように現れ、そして本歌取り的な展開を見せるのか、という点も気になる。
(マライ・メントライン 文筆家)