書評
2025年1月号掲載
現役編集者としての嗅覚
津野海太郎『生きるための読書』
対象書籍名:『生きるための読書』
対象著者:津野海太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-318535-2
いま、〈本〉は過渡期にある。
それは単に本が読まれなくなった、書店の数が減ったという話ではなく、読者の本へのアクセスの仕方、本そのものの受容のされ方が、従来のものとは変わってきたということだ。
まず本は、ただ街を歩いていれば自然と目にする日用品ではなくなった。どこにでもあるはずだった〈本〉は、読者のほうからわざわざ出会いに行く嗜好品になりつつあり、そうした動きを示すのが、いま全国で増えている「独立書店」と呼ばれる店だ。そして遠くまで足を運んだその先には、本好きの気持ちをくすぐる、親しみやすい本が並んでいる。
わたしはいま「親しみやすい」と書いたが、それはこれまで「かたい本」と思われていた、人文書と呼ばれるジャンルに顕著である。語り口はソフト、ときにはフィクションやドキュメンタリーの手法も織り交ぜながら、読者が最新の人文知に触れることのできるよう心配りがなされている。本の装丁も、その多くが威厳のあるハードカバーから手に取りやすいソフトカバーへと変わり、思わず手が伸びてしまう。
そうした本の世界の変貌ぶりは、本書の著者である評論家の津野海太郎さんも感じ取られていたようだ。津野さんはこの約十年のあいだ、老人の読書を主題にしたエッセイを三冊出版していたが、その後「なにかが欠けているみたい、ほんとにこれでいいのかね」という心の揺れが生じてきたという。
はじまりは伊藤亜紗さん。伊藤さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読み、津野さんはとても衝撃を受けた。語り口は柔らかで、気持ちよく読むことができ、積極的なのに高圧的なところもない。津野さんはそこに、あかるい風通しのよさを感じられたと思うが、そのことは津野さんが最後の「お祭り読書」として選んだ彼女の世代の著者たち(斎藤幸平、森田真生、小川さやか、千葉雅也、藤原辰史)にも共通する特徴であった……。そのように「もうじき死ぬ人」(津野さんが自らを自嘲する言葉です)が、いまの読書シーンを再発見した記録が、この『生きるための読書』なのである。
津野さんはこうしたあたらしい著者に、従来の知識人にはなかったある種の親切さを感じたという。東大や京大で専門教育を受けた「物を知っている人間」が、「物を知らない人間」へのやさしさを捨てず、同じ生活者としての平易な言葉を用いて本を書く――いまはたくさんのことを知る秀才が、大学から自分の体ごと外の世界へ飛び出し、それぞれ独自の場を作る時代だが、それを面白がる津野さんには、ノスタルジーに溺れることのない、編集者としての嗅覚が垣間見える。
そうした津野さんの現役ぶりは、本書の後半で語られる「静かなアナキズム」の話題にも顕著だ。
大きなシステムの力が強まる世界で、ブレイディみかこや栗原康、松村圭一郎などによる、これまでにはないタイプのアナキズム本が刊行されているいま、津野さんはかつて鶴見俊輔が唱えた「静かなアナキズム」という言葉に立ち返った。権力に対して暴力で訴えかけるのではなく、地域や友だちづきあいといった小さな集団に基づく自由な社会を目指すこと。もちろんそこには、現実に対する「きば」がなければならないが、そうした社会が、そのまま大きなシステムに対してのカウンターとなるのだ。そのことは冒頭に書いた、「独立書店」という本屋をめぐるあたらしい動きともつながっているし、いま様々な分野で起きている、小さく・ローカルであろうとする動きにも関連することだと思う。
ともあれ、そうしたますます息苦しくなる時代で、〈個〉を押し潰されないようにいるための読書=生きるための読書が、あたらしい習慣として定着していることに津野さんは気がついた。最近わたしの二十代の友人は、「(戦争や差別がなくならない)こんな嫌な世界を自分の頭だけで乗り越えるのは大変だから、みんな必死で本を読んでいる」と語っていたが、津野さんの発見した「生きるための読書」とは、彼女のような若い世代には首を縦に振るしかない、よく見知った習慣なのである。
長年、本というものに触れてきた津野さんは、本だけを手がかりに、そうした時代感覚にまで辿り着いた。どうしたらそんなことができるのか、まったく恐るべしというしかない。
(つじやま・よしお 本屋Title店主)