書評
2025年1月号掲載
私たちの娼婦
永井荷風『つゆのあとさき・カッフェー一夕話』
対象書籍名:『つゆのあとさき・カッフェー一夕話』
対象著者:永井荷風
対象書籍ISBN:978-4-10-106910-4
明治期から大正期にかけて日本に多くできたカフェー・プランタンやカフェー・ライオンに代表されるようなコーヒーや料理を提供する店は、フランスのカフェを参考にしながら男性給仕のギャルソンではなく美しい女給を置いたのが特徴的で、なかには女給を目当てにやってくる客もいたらしい。だからと言って関東大震災の後に同じカフェーの名を冠しながらも専ら女給のサービスを売りにする店が氾濫するようになったのは、さすがトルコ式サウナを瞬く間に売春の場に変えてしまうような日本の伝統である。大正末期から昭和初期のそういったカフェーの女給は、今でいえばクラブホステスやキャバクラ嬢のような役割を期待される存在で、その姿は有名なところで言えば谷崎潤一郎『痴人の愛』や林芙美子『放浪記』などに描かれるなど、夜の街を彩る文化風俗であった。
広義の娼婦たちが集まる場所には男女の駆け引きがあり女同士の抗争があり魅力的なミステリがあるもので、古くから現在に至るまで小説や映画の題材になってきたのだが、はたして永井荷風が1931年に発表したカフェーが舞台の本作「つゆのあとさき」に描かれたのは、そういった古き良き妖艶な娼婦像でも、娼婦たちの愛しく醜い争いでもない。主人公である女給・君江は物語冒頭で最近自分の身に起きている不気味な出来事を気にして占い師を訪ねるが、彼女が経験するその程度のミステリはあるものの、読者が彼女に対して抱くミステリは大してない。田舎者の女房になりたくなかったが、芸者になるには警察から実家に問い合わせが行くのを知ってしかたなく女給になった、と出自もはっきりしたものだし、お客に身体を擦り寄せながら仕事をやめたいなんて言った際にもその心は「実は今夜連れられて行った先で、矢田が気前好く祝儀を奮発するかどうかを確めて置こうと思っただけである」と淡々と解説される。
そういう意味でこの作品の面白味は不思議な魅力を持った女の謎に迫るのでも、その女の魔力に籠絡されて身を崩す男たちを見るのでもなく、擦れていると言ってしまえば擦れ切った君江の、好奇心のままに男をとっかえひっかえして小銭を稼ぎ、知らぬ間に男の恨みを買ってはさして気にすることもなく、清々しい売女っぷりを粛々と見届けることにある。セックスなんてなるべくしない方が高級なイイ女であるように扱われる時代を超えた風潮のなかで、まして女を売りにしながらぎりぎり娼婦を名乗らないでいい仕事をしていると、基本的に女の多くは純情ぶって生きていくものだ。興味関心よりも貞操を重視して、その夜を楽しむことよりも恥じらいを重視する。
君江はそういう倫理やマウンティングの外側にいる。家を飛び出した後に事務員を経験するも、就職してすぐにそこの課長に待合に連れ込まれる。ただ、君江が恥じらったり嫌がったりしないがために、課長は興が冷めて早々と帰ってしまう。もとからそんなところがある。さらに私娼のようなことを経て女給となった君江はその頃持っていた怖さやもの珍しさすら「馴れた上にも馴れきって、何とも思わなくなってしまった」。初めて寝る男に対して、また最初はいやだと思った男に対して、特に悩殺しなければ気が済まないという癖を持ち、いいと思う男に出会っても熱しやすく冷めやすいという生まれついての浮気者でもある。そんな貞操も倫理もない、淡々と男と寝る君江を描く作者の筆致もまた淡々としていて、その波長が本作のやたらと清々しい感じを演出する。セックスを神聖なものにも感傷的なものにもせずに穢れるのは私の自由と言わんばかりに性の自己決定を地で行く君江の心情描写もまた感傷的なところがない。
歓楽街で君江のような女を見つけるのは容易いようで意外と難しい。ホステスなどしていてもやはりどこか男に媚びる態度を嫌がるような、純情ぶったいやらしさがあるもので、そんなプライドがある割にはうっかり男のいいなりになってしまうような迂闊さもある。男に媚びた素振りはいくらでも見せながら、内実男の思うようにはならない、悪びれず自分の思うままに男と寝る、そんな君江は男の望むミステリアスな娼婦ではない、私たちの求める娼婦だ。セックスしない方が高い女だなんていう価値観には、私たちはすっかり嫌気がさしているのだから。
(すずき・すずみ 作家)