書評

2025年2月号掲載

衣装だんすはファンタジーの出発点

C・S・ルイス、小澤身和子 訳
『ナルニア国物語1 ライオンと魔女』 『ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』 『ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』(新潮文庫)

大森望

対象書籍名:『ナルニア国物語1 ライオンと魔女』/『ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』/『ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』
対象著者:C・S・ルイス/小澤身和子 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-240661-8/978-4-10-240662-5/978-4-10-240663-2

『ライオンと魔女』に始まる瀬田貞二訳の《ナルニア国ものがたり》を初めて読んだのは、1960年代の末、小学校の二年生か三年生のときだったと思う。それからしばらく、親戚の家に泊まりにいくたび、洋服だんすの中に潜り込んだ。残念ながら、たんすの奥がナルニア国に通じていたことは一度もなかったが、子ども時代に《ナルニア》に夢中になった人なら、誰しも似たようなことをした覚えがあるはずだ。《ナルニア》が、初刊から何十年経っても子どもたちに愛されつづけているのは、“向こう側”に行ってみたいという夢を叶えてくれるからだろう。
 C・S・ルイスの《ナルニア》全七巻の原書が出版されたのは、1950年から1956年にかけて。一方、J・R・R・トールキンの『指輪物語』が刊行されたのは1954~1955年。《ナルニア》と『指輪』は、現代ファンタジーの事実上の出発点とも言うべき二大傑作だが、それが同じオックスフォード大学の同僚だった親友同士の二人の手で、ほぼ同時期に生み出されたわけだ。
『指輪物語』は、架空の異世界が舞台となり、(少なくとも作中では)現実世界との接点を持たない。アーシュラ・K・ル=グウィンの《ゲド戦記》シリーズや上橋菜穂子《守り人》シリーズも同様で、これらは純粋なハイ・ファンタジー(異世界ファンタジー)に分類される。
 対する《ナルニア》は、現実世界のふつうの子どもたちが異世界に赴き、たいへんな冒険をしたのち、また現実世界に戻ってくるという、異世界往還型の物語構造を持つ。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』や、ジブリ映画の「千と千尋の神隠し」がこのタイプ。日本のファンタジーでは、新井素子の『扉を開けて』や、宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』『英雄の書』などがこれに該当する。中でも、小野不由美《十二国記》シリーズは、《ナルニア》の影響がそこここに見てとれる。十二国の世界は、こちらの世界(の日本と中国)と稀につながることがあり、《ナルニア》と同じく、こちら側から向こう側に行った人々の物語がシリーズの中核になる。《十二国記》エピソード1にあたる『月の影 影の海』では、現代日本の高校生・中嶋陽子が向こう側(十二国)へと連れ去られ、(《ナルニア》第四巻『銀のいすと地底の国』のジルと同じように)見知らぬ異界にひとり放り出されてしまうのだが、その陽子を助けるネズミの半獣・楽俊には、《ナルニア》に出てくる“しゃべるネズミ”の長・リーピチープの面影がある。
《ナルニア》は、異世界を主な舞台にしているものの、こちら側の世界の子どもたちが案内役になってくれるので、いつの時代のどこの国の子どもたちでも物語に入りやすい。『ライオンと魔女』の冒頭、四人きょうだいの三番めにあたるエドマンドが、たんすの奥に別の世界なんかなかったと、きょうだいの前でついウソをついてしまうくだりは、(そのころの私にはきょうだいがなかったにもかかわらず)おおいに身につまされた。もっとも、白い魔女にプリンで籠絡されるくだりはあまり感情移入できなかった。というのも当時の私はプリンが大嫌いだったからで、瀬田貞二訳の初版本に出てくるプリンが原書ではターキッシュ・ディライトというトルコのお菓子だったと知るのは大学に入ってからのこと。実際にそれを食べて「やっぱりたいして美味しくないなあ」と思うのはそのさらに数年後だが、そういうディテールを鮮烈に記憶しているのも《ナルニア》体験の特徴かもしれない。
 第四巻のラストで、アスランがジルたちとともにわざわざ現実世界にやってきて、いじめっ子たちと校長先生に対する仕返しに力を貸してくれる場面はおおいに興奮した。『はてしない物語』を映画化した「ネバーエンディング・ストーリー」でも、主人公のバスチアンは竜のファルコンにまたがって現実世界に帰還し、いじめっ子たちに仕返しする。原作に存在しないこんなシーンをラストに持ってきたのは、ウォルフガング・ペーターゼン監督なりの《ナルニア》オマージュだったのかもしれない。
 いちばん新しい小澤身和子訳の新潮文庫版でひさしぶりに第三巻まで再読したら止まらなくなり、結局、べつの版で最後まで読んでしまった。たとえたんすの奥に入口が見つからなくても、本を開けばいつでもナルニアに帰れるし、子ども時代をとり戻せる。まあ、そのナルニアが災厄に見舞われる『さいごの戦い』は、(結末がわかっていても)いまだに読み返すのがちょっとつらいんだけど。

(おおもり・のぞみ 翻訳家/書評家)

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