書評

2025年2月号掲載

虚実の絡ませ具合に妙

宮城谷昌光『公孫龍 巻四 玄龍篇』

清原康正

対象書籍名:『公孫龍 巻四 玄龍篇』
対象著者:宮城谷昌光
対象書籍ISBN:978-4-10-400431-7

 中国・春秋戦国時代、周王朝の王子の身分を棄てた青年が群雄割拠の戦乱の世を切り拓いていく大河歴史小説「公孫龍」シリーズがついに完結した。『公孫龍 巻一 青龍篇』『公孫龍 巻二 赤龍篇』『公孫龍 巻三 白龍篇』に続く『公孫龍 巻四 玄龍篇』である。「小説新潮」誌上に2019年4月号から2024年7月号にかけて連載された。『巻四』の巻末に収録されている「連載を終えて(あとがきに代えて)」の中で、「六十四回、六十四か月という長い連載が終わった。が、疲労感はない」と記している。
 その理由としては、「連載がはじまると、私は筆者でありながら、公孫龍の従者のようになった。公孫龍を先導するのではなく、うしろについてゆく従者である」「私は公孫龍に従い、公孫龍とともに生きている時間が愉しかった」といった記述からも十分に理解することができる。「おなじような愉しさを読者に分かつことができたか、どうか」と記しているのだが、全四巻を通して公孫龍のキャラクターに魅了されっ放しの読者としては、公孫龍の長い旅の模様をたどる「愉しさ」を満喫することができた。
『巻四』の「刎頸の交わり」章の中に、公孫龍が「永遠の英雄」と仰ぎ見る楽毅と同じ時代に生きている「幸福を、なんと表現したらよいのか」と思う箇所がある。この箇所にさしかかったとき、読者としては、二十一世紀に入ってなお混迷が続く現況にあって、「宮城谷作品に接することの幸福を、なんと表現したらよいのか」と心底思い当たったものだった。ひとつひとつの作品が巨大な峰々として聳え立つ宮城谷山脈に、今また、さらにひとつの巨峰が加えられて裾野がより広がった。それに立ち会えたことの喜び、愉しさである。
 この波瀾万丈、壮大な大河歴史小説は、周王朝の十八歳の王子・稜が父・赧王に燕の人質として送られるところから始まった。周の宮廷内の陰謀で命を狙われたと知った稜は、名を公孫龍と変えて商人となった。この人質については『巻一』の冒頭章「人質の旅」で簡潔に説明がなされていた。物語の背景となる時代状況が虚実取り混ぜの中で的確に示唆され、展開していくところに、「公孫龍」シリーズの大きな魅力がある。
 楚王から趙王に献上された天下の名宝「和氏の璧」という宝石を秦王が城十五と交換したいと書翰を送ってきたことで、趙王室の宦官令の家臣・藺相如が使者として璧を秦に運ぶ任を担い、公孫龍が副使に命じられたことに始まる「巻四」にも、こうした説明が多く見受けられる。この「和氏の璧」をめぐる趙と秦のトラブルから、「怒髪衝冠」「完璧」という熟語が定着したことが付記されている。時代状況についても、「和氏の璧ただひとつのことで、秦と趙の長年の友好は、こわれてしまった」「孟嘗君が生きていた時代は、諸国は均衡を保っていたが、いまや秦の武力が猛威となって、天下を掻き乱している」「中国の戦国史において、秦がまず懐を取り、つぎにケイ丘を取ったところから、中国統一がはじまったと想ってよい」「趙の首都である邯鄲がかかえているおもしろみ」などと薀蓄ある説明がそこかしこに施されている。
 趙軍と秦軍の戦いとなった閼与の戦いで、公孫龍は趙奢将軍とともに大奮戦して秦軍を潰走させた。その三年後の春、十八歳で周都を出てから三十四年、公孫龍は五十二歳になっていた。趙王・恵文王の死で、公孫龍は平原君を輔佐することとなる。
 中国・春秋戦国時代の英雄英傑を描いた宮城谷作品は数多いのだが、「公孫龍」シリーズに登場してくる人物を主人公にした作品には『孟嘗君』『楽毅』『青空はるかに』(范雎)がある。これらの作品に描写されているそれぞれのキャラクターを「公孫龍」シリーズと比較してみる「愉しさ」がある。
 先に紹介した「連載を終えて」で「公孫龍子という思想家」に触れられている。そこから発想が飛躍して、シリーズの主人公・公孫龍が実在の公孫龍子から切り離されていったという。架空の人物である公孫龍に孟嘗君、楽毅、范雎など実在した人物を組み合わせることで、「時代の実相」が映し出されていく。こうした虚と実の絡ませ具合に妙味があり、宮城谷山脈により豊かな滋味を与えるものとなっている。

(きよはら・やすまさ 文芸評論家)

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