書評
2025年2月号掲載
昭和の人々の言葉の先に見えてくるものは?
五木寛之『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)
対象書籍名:『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』
対象著者:五木寛之
対象書籍ISBN:978-4-10-603920-1
高校時代の終盤、初めての鉄道一人旅をした行き先は、金沢でした。当時、私には五木寛之ブームが到来しており、作品に出てくる金沢という街に、憧れを抱いていたのです。
昭和末期、世がバブルへと転がっていく頃の東京の高校生だった私の生活はからりと明るく、そこには微塵の湿り気も漂っていませんでした。だからこそ私は、五木作品に漂うほの暗さや湿り気に惹かれ、金沢を訪れたのでしょう。
それから、四十年。『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』を読んでいる時に私が感じたのは、昭和を濃厚に生きた人々が抱く湿度でした。五木寛之さんが実際に会い、言葉を交わした多彩な人々の言葉が本書には収められていますが、言葉の端々から、昭和という時代の香りが、湿度とともに漂ってきたのです。
大学時代、同級生だった三木卓と構内のベンチでコッペパンを分け合っている時、
「ぼくらは同じ刻印を背おった人間だから」
と三木が漏らしたのは、彼は旧満州から、そして著者は平壌から引き揚げてきた過去を持っていたから。引き揚げ者は難民ではなく、自分の国に「追い返された人間」であり、自身が育った地について「郷愁で語ることはできない」からこそ、彼等はその背に、生涯消えない刻印を負いました。
また童謡の作詞家である吉岡治は、作詞家仲間だった著者に、
「いまは童謡の時代ではないのかもしれない」
とつぶやきます。童謡が花形だった時代は終わり、世間は既に新しい歌を求めていたのであり、栄枯の寂寞が彼の言葉からは漂うのです。
『艶歌』をはじめとした、芸能界ものの五木作品も好きだった私。吉岡治のみならず、本書に何人も登場する昭和の芸能界の人々の言葉にも、「これはまさに、あの小説に登場する人々の言葉!」と興奮しました。
たとえば、『艶歌』『海峡物語』の主人公である「高円寺竜三」のモデルとされた音楽ディレクター・馬淵玄三。彼は、
「うまい歌じゃなくて、いい歌をききたいんだ」
と言い、レコーディングの時、歌手に何十回と繰り返し歌わせたのだそう。そして突然、
「よし! できた」
と立ち上がるという「時代劇みたいなレコードの世界」があったというのは、一発本番の「ファースト・テイク」がYouTubeで人気の今からすると、まさに時代劇的です。
作詞家の世界で「大先輩」だった星野哲郎に、著者が「ぼくの書く歌は、どうしてヒットしないんでしょうかね」と訊ねた時の返事も、本書には記されます。星野哲郎は「あなたの歌詞は、最初から最後までキチンとし過ぎてる」として、
「歌も芝居も、ダレ場というものが必要なんじゃないのかな」
と応えるのでした。
サビの前は、どうでもいい言葉の方がいい。「全部キラキラしてると、サビが立たない」というその教えは、時代を問わず、様々な場面に当てはまります。
多くの言葉の中から、ただ一言だけを切り取ることによって、発言者の人となりを鮮やかに浮かび上がらせるこの本。しかし読み終えた先に見えたのは、五木寛之という作家の姿そのものでした。文学、芸能、学術、宗教、実業界等、様々な世界の人が本書には登場しますが、その交友関係の豊かさは、著者の人生の広さと深さを示します。そして多くの出会いと会話から作家が何を得たかを知れば、人生曼荼羅図のようなものが、浮かび上がってくるかのよう。
本書を読み終えて、自分もまた昭和人の一人、との意を強くした私。実は先日、仕事で初めて五木先生にお会いする機会を得たのですが、このような時が来るとは! と報告したくなった相手は、亡き親の他にもう一人、高校時代の自分でした。
「四十年後、五木先生にお目にかかる時が来るよ」
と、一人とぼとぼ金沢へ向かう自分に、言ってやりたくて仕方ありません。
(さかい・じゅんこ エッセイスト)