書評

2025年2月号掲載

ちょっと待ってよ

下妻みどり『すごい長崎―日本を創った「辺境」の秘密―』

門井慶喜

対象書籍名:『すごい長崎―日本を創った「辺境」の秘密―』
対象著者:下妻みどり
対象書籍ISBN:978-4-10-356051-7

 長崎のことなら、誰だって知っている。
 九州の最西端である。江戸時代には出島という人工島がつくられてオランダ商館が建てられたし、幕末には坂本龍馬が海援隊を創設した。
 明治以降は造船業が盛んになり、戦争で原爆が落とされた。復活して今に至る。名所は眼鏡橋とグラバー邸。グルメなら卓袱料理とちゃんぽん。
 ちょっと待ってよ、というのが、おそらく著者がこの本を書いた動機だろう。それはほんとうに知っているのか。知っているという満足はかえって真の魅力への関心の妨げになるのではないか。
 なるほど――と著者は言う――長崎に出島はある。現在は「出島和蘭おらんだ商館跡」と称して国の史跡になっている。けれども元来あの人工島が築かれたのはオランダ人への解放のためではなく、ポルトガル人の監禁のためだった。慶長18年(1613)、江戸幕府がキリスト教の禁教令を発したのちもなお南蛮貿易はつづいていて、街の人々はごく当たり前にポルトガル人と接していたので、真の禁教を実現すべく隔離することに決めたのだ。
 ところがその後、さらに幕府の鎖国政策が進展して、来航そのものが禁止となった。人工島はいわば空き家となったため、その空き家をオランダ人向けに転用した。つまりオランダ人は二番目の入居者だったわけである……と、これだけならば単なる豆知識だけれども、しかし本書の真価はその先にある。
 本書は、その後の出島と港の動向にも触れる。じつはロシア船も来ているし、イギリス船も来ているのだと。それぞれ複雑な事情があってのことだが、それを読んで私たちが得られるのは、単なる豆知識をこえた、長崎という街そのものの生きた横顔にほかならなかった。この街では世界の主要な国々がときに偶然に、ときに意図的に顔を合わせて利害を競い合う。
 つまりは世界史の集約点なのである。その集約点がむしろ当の日本人の意識では都から遠く離れた辺境ということになる、その求心性と遠心性がこもごも溶け合う複雑な味こそ長崎の魅力のいっとう根本的なもののひとつなのだと、どうやら著者はそう言いたいらしい。いつのまにか読者はこんな深い場所まで連れて来られてしまったのだ。
 著者は、下妻みどり氏である。冒頭の「はじめに」によれば長崎に五十年以上暮らし、そのうち三十年近くは本やテレビの仕事をしてきたとか。
 いわばプロフェッショナルの定住者。右に記したような本書のスタイルは、こういう稀有な存在が初心に返って「長崎って何だろう」とまっすぐ疑問に感じたとき、はじめて生まれるのかもしれない。およそ出島のみならず、眼鏡橋をとりあげても、原爆をとりあげても、著者の態度は基本的には変わらないのである。
 もちろん読者としては、そんなところまで考えずともいい。それこそ豆知識の宝庫としても読むことができる。叙述は時系列に忠実で、話題は豊富。本書を片手に実際に街歩きをするのも楽しいだろう。
 そのさいは、もちろん諏訪神社や大浦天主堂のような有名スポットに立ち寄ってもいいけれども、私など、たとえば勝山町をぶらぶらしたくなった。
 地図で見ると何ということもないような町だが、本書は言う。現代ではご多分に洩れず長崎でも少子化が進み、かつて繁栄した旧市街地でさえ三つの小学校が統廃合された。そのとき発掘調査もおこなわれて、

 市内で最も古い勝山小学校の敷地からは、江戸時代の代官屋敷の跡、それ以前のサント・ドミンゴ教会の遺構が発見された。禁教前にあった教会は、すべてが激しく破壊され、跡地には常に別の建物が“上書き”されており、当時の遺構が見つかるのは初めてだった。

 この町の地中には、そんな歴史が息づいている。きっと地上の空気も、いい匂いにちがいない。

(かどい・よしのぶ 作家)

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